六月二十三日(木)
六月二十三日(木)
窓を叩く雨の音と口から鼻に突き抜けるアルコールの臭いで男は目を覚ました。重たい頭を倒して時計を見る。朝八時。寝坊してしまったようだ。気怠げに体を起こし、テーブルの上にあるビールの空き缶を掴んでシンクへ向かった。栓をひねり、空き缶を蛇口の下に添えると、水が勢いよく缶の底を叩く音がした。冷たい液体はすぐに缶を満たし、口から溢れ出して彼の手を濡らす。水は指に捕まることなく流しに落ちて、するすると排水溝へ流れていく。なかなか治らないあかぎれがヒリヒリと痛んだ。男は空き缶を逆さにして中の水を流すと、資源ゴミ用の袋にそれを放り投げた。
普段より遅く大学に着いた男は、講義が始まる前に教務掛を訪れてプレイヤーとイヤホンが届いてないか再度尋ねたが、やはり意味はなかった。結局、今日も講義が始まるまでの間、耳栓をして過ごすことになったのだった。
二限目の講義が終わった頃には、雨は止んで太陽は雲の間から少しだけ頭をのぞかせていた。これなら傘は必要ないな、と少し喜びながら、昼食をとっている学生たちを尻目に講義室を出て階段を降りていった。
男は柱廊に足を踏み入れた。太陽は昨日から長らく雲に隠されていたのだが、降り続いた雨の湿気のせいで外は蒸し暑く、雨の匂いがする。視線を下ろすと、どこかから光の線が伸びて地面を横切り、柱廊をこちら側とあちら側に隔てていた。男はその線を辿る。柱廊の床、白や赤土色のアスファルト、木のねもと、それからベンチ。光の線はいくつかあるベンチのうちの彼に最も近いものから伸びていた。構内の暗さに慣れていた男は、眩しさで少し目を細めながら更にその先を見ると、それはベンチに座っている女学生から発せられていることが分かった。厳密に言えば、その光の線は彼女の膝に挟まれたスマートフォンの液晶画面が太陽の光を反射したものである。
その女学生は足を組み、両膝で器用に携帯を支えていて、男は何となく砂山に突き刺さったスコップを連想した。彼女は爽やかな印象を、仰らしく言えばある種の衝撃を、男に与えた。無造作に流された短髪、大きめの緑のTシャツ、デニムのホットパンツ、気持ちよく日に焼けた肌。それら全てが“あの女”とまるで真逆だ。男はそう感じた。そして、太陽が彼女の座るベンチの周辺にのみ、光をスポットライトのように注いでいる。彼女は無線イヤホンをしていて、音楽でも聴きながら眠っているのか、身動き一つしていない。額や首にかいた汗がキラキラと光った。
男は彼女に見惚れていたが、すぐ我に返り、できる限り足音を殺して柱廊を通り抜けようとした。その時、ガシャという乾いた音が聞こえた。音の方を見ると、スマホが転がっていた。どうやらその女学生の膝に挟んであったものが地面に落ちてしまったようだ。男は少し迷って歩を進めようとしたが、周囲の学生たちは全く気に留める様子がなかったので、静かにベンチに近づいて携帯を拾った。カバーやデコレーションの一切無いスマートフォンだ。できるだけ音を立てずにそのスマホを彼女の側に置いた。そこで要らぬ好奇心がこぼれだし、つい彼女をチラリと見てしまった。彼女の目は開いていた。目が合う。濃い茶色の瞳が映す彼自身とも目が合った。
「ありがとう。」女学生がゆったりと言った。
「いえ、そんな。」
「…」
「…」
「さっき私のことずっと見てたよね?」
最近どうもツイていないな。そう思いながらも男は笑みを繕った。
「いや、そんなまさか。ははは。」
「ふうん。」
彼女は訝しげな視線をやった。
「あはは、それじゃあ失礼します。」
男はおかめのように笑い、何度も会釈しつつ後ずさった。
「そういえば君、この前二階の講義室に音楽プレイヤーとイヤホン忘れて帰ったよね?」
「え?はい、見ていたんですか?」
男の笑顔に綻びが生まれた。
「うん。肩叩いたし。」
彼女はそう言って小さなリュックサックからイヤホンとプレイヤーを取り出した。男が驚きのあまり声を出せずにその場に固まっていると、彼女はベンチの端に座り直す。
「さ、ほら、座りなよ。」と女学生が言った。
男は言われるがままベンチに座り、彼女からイヤホンとプレイヤーを受け取った。
「何か言うことがあるんじゃないの?」
無言の男を覗き込みながら彼女はそう言った。
「あっ、ええと、ありがとうございます。」男は混乱してまごつきながら答え、「その、あなたが二日前に講義室で僕の肩を叩いたんですか?」と続けて言った。
「うん。なんか凄い気分悪そうだったから。」
「そうなんですね。とても冷たい手だったからてっきり幽霊かなにかと思いましたよ。」男は笑いながら言った。
「うーん、そんなに私の手って冷たいかなぁ。」
彼女は自身の手を男の手に重ねた。
「どう?」彼女は男を見ながら言った。
「どうって、まぁ暖かい方だと思いますけど。」
「でしょ?君、すごい汗かいてたから冷たく感じたんじゃない?」
「そうかもしれませんね。」
男は何だか恥ずかしくなり、イヤホンを指でいじろうとして違和感に気づいた。
「あれ?イヤホン新品になってる?」
「ん?ああ、あのイヤホン千切れちゃってたから新しいのを買ったの。」
彼女は何の気なしにそう言ったので、男は驚かずにはいられなかった。
「どうして、そんなわざわざ…」
「だってイヤホン千切れたら音楽聞けなくて困るでしょ?」
「それはそうですけど…いくらだったんですか?代金は払いますよ。」
「別にいいよ、イヤホンぐらい。それとも要らなかった?」
「そういう訳じゃないですよ。でも酔狂なことしますね。」
「そうかな?」と彼女は笑いながら言った。
「まあでも、貰えるものは貰っておきますよ。ありがとうございます。」
「うん、そうして。」
「はい。それじゃあ、失礼します」
男はベンチから立ち上がり、その女学生に会釈をして歩き出した。太陽は再び薄い雲に隠され、地上の物々が地面に投げかける影は不安になるほど淡い。何だか僕の趣味には合わないイヤホンだけどわがまま言えないよな、と思いながらイヤホンをつけてプレイヤーの電源を入れた。イヤホンはイヤーピースがピンク色のかわいらしいものだった。
比叡山が半端に照り返した夕焼けの光でいつものワンルームは薄暗く、扇風機の首が回るギチギチという音とグツグツという何かを煮込む音だけが、疎流のせせらぎのように窓に向かって流れていく。男は窓の下枠に半分ほど座りながらタバコを吸っていた。巻紙は半分ほど燃え、灰が自重でぽろりと落ちる。そして、灰は風に吹かれ、バラバラになりながら遠くへ飛び去る。男はそれを見送ると、部屋の中に視線を移した。窓から差し込む夕明かりを除いて、部屋の光源はコンロから出る炎の光だけだ。コンロは玄関のすぐ横にあり、その炎がぼんやりと薄い扉を照らし浮かばせている。小さな鍋から立ち上る湯気とそれに含まれる人参やほうれん草や挽肉の匂いが、扇風機に送られた風によって攪拌されて部屋と鼻腔を満たした。男はカレーを作っていたのである。カレールウはスーパーで半額になっていたもので、野菜や肉もおつとめ品だったが、それでも彼にとっては久しぶりの贅沢な夕食に違いなかった。
男はタバコをフィルターぎりぎりまで吸いきって窓を閉めると、吸い殻を捨てるためにゴミ箱に向かった。その時、姿見の後ろで何かがもぞもぞと動いているのが目にとまる。それは気づかれるのを待っていたかのように、姿見の後ろから身を揺らしながら出てきた。出てきたのは、やはりあの黒いモヤ。男が呆れたように見ていると、それはくねくねと男の三歩前の位置まで来て、そこでピタリと動きを止めた。
「鬱陶しいなあ。すっこんでくれないか?お前がいると、飯がまずくなるんだよ。」
それだけ言うと、彼はモヤを無視してコンロに向かった。
小鍋にルウを溶かしている間も、モヤは彼の背後にぴったりとくっついていた。夕食を作っている母親にちょっかいを出す子供みたいだ。男は鍋をテーブルに置いて座ると、手を合わせた。モヤはテーブルの向かい側でワカメのように揺れている。
「分かったよ。いていいからさ、隅っこの方にいてくれないか?」
男はイライラしてそう言いながらスプーンで姿見の方を指すと、モヤは思いの外聞き分けよく部屋の隅に移動していった。
食事中、男は何となくモヤを見ていた。それは、横に揺れては縦に揺れて、激しく揺れては緩やかに揺れて、というのを、時には規則的に、時には不規則的に、繰り返す。まるで犬や猫が飼い主に必死に感情表現しているみたいだな。そう思うと、男はおかしくなってきて思わず笑ってしまった。
「…ひょっとして喜んでるのか?」
男が何となくぽつりとそう呟くと、それはピタリと動きを止めた。それに目なんかあるはずないのだが、見られているように感じた。まさかな、と思いながら彼は立ち上がり、空になった鍋を流しに持って行った。
テーブルに戻って部屋の隅を見ると、もう黒いモヤはいなくなっていた。




