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More Songs...  作者: alIsa
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五月末 金曜日①

 五月末 金曜日

 冷泉通りは雨に強く打ち付けられ、黒く膨らんでいた。男は応天門で雨宿りをしていた。

激しい雨を降らせる仄暗い雲は、広く分厚く空に広がり、十八時にもかかわらず辺りを薄暗くしている。等速度で等間隔に降る規則的な雨は、門の碧瓦や柱にぶつかって空の監視を逃れると、途端に見境なく絡み合い、流され、地に落ちていく。応天門と冷泉通りは普段なら敷き詰められた砂利によって隔てられているのだが、今日に限っていえば、雨に濡れてぬらぬらと奇妙な光沢を帯びた砂利たちは、まるで大量に産み落とされた虫の卵のようである。

 十八時。男はいつもならバイト先のキャバクラで開店準備をしている時間なのだが、ここ数年どうやら巡り合わせが悪いようで、例に漏れず今日も本当についていなかった。



 男は十七時にアパートの自室から出て、この冷泉通りを抜け、東大路通を通り、祇園にあるバイト先へ向かった。ここまではいつも通りだった。観光客や中高生であふれかえる祇園もいつも通り不快だった。しかし、店に着いて控え室で着替えていた時、この時間には珍しく店長がやってきたと思うと、唐突に男へ解雇を告げた。彼は、給料は後々払うとかいったことを一方的に言い、そのまま黙って奥へ引っ込んでいった。突然の事態にただ呆然としていると、外でタバコを吸っていたフロアマネージャーが、控え室につながっている裏口から中に入ってきて男のスラックスに二三〇円のバス代を突っ込んだ。

「まあ、そういうことだから。」

 それだけ言って彼もまた奥へ引っ込んでいった。

 店の外へつながる従業員用扉を開けると、ポツポツと小雨が降っていた。五月の冷たい雨だった。男はうんざりした気持ちで、立て付けの悪い扉を後ろ手で押し込むように閉めた後、できるだけ屋根のあるところを通って、大通りに出た。再び東大路通を通って冷泉通りにさしかかった辺りで雨が強くなり始めたため、慌てて応天門へとかけこんだのだった。



 思い返してみると、理不尽すぎて頭痛がしてくるほどだ。雨にうたれたせいもあるだろうが、男はひどく気弱になっていてたまらず柱にもたれかかると、冷泉通りを挟んで向かい側にある岡崎公園をぼんやりと眺めた。

 雨を吸ったアスファルトと土の匂いが周囲には漂っている。次から次へと不安が浮かび、男の内側にこびりついた。あと一年と半期分の学費を払えるだろうか。そもそも生活費はいつまでもつだろうか。そんなことが頭をよぎってはそのまま血管に流れ、体内の至る所に駆け巡った。その不安たちは血液に混ざり、血をドロドロにしてしまうと、そのまま皮膚へ、筋肉へ、内臓へ、向かう。そして男の体は腐り、まず右の上腕から下があっさりとちぎれ、腕からは黒い液体がボタボタと雨音の旋律を乱すかのように滴った。遠くから誰かの笑い声が聞こえる。嫌な声だった。男は思わず顔をしかめた。

 その時、スラックスのポケットから、ジャラ、という音が聞こえた。男はその音に我に返ると、悲観的に考えてもしょうがないな、と思い直した。そうだ、僕の通帳にはまだ二十数万ほどあるし、マネージャーが惜しげなく寄こした二三〇円もあるじゃないか。それに今月と先月分の給料も支払われるはずだ。大丈夫、やっていけるさ。自分にそう言って聞かせると、自身の体につながっている右腕の存在を左手で確かめた。そして、リュックサックのポケットからタバコとライター取り出し、少し前にバイト先の後輩がくれたものだ、火をつけた。彼は体内の不安も一緒に吐き出すかのように、タバコを吸っては煙を吐いた。煙は雨とは真逆に空へと上っていく。それを見ながら、ここと別のどこかにはタバコの煙が空から降って雨が空へ上っていくような世界があるのだろうか、とぼんやり考えた。


 タバコから出る煙の最後の一筋を見送ると、頭痛も不安もいくらか無くなっていた。男は吸い殻をポケットに突っ込み、大きく伸びをして目を瞑った。楽しいことを考えよう、僕は幸せになりたいんだ。彼は思う。まず公務員試験に受かって、一日三食食える年収を手に入れて、まともな部屋に住んで、きれいな服を着よう。結婚もしたいな。普通のありふれた女性と出会って、ありふれた恋愛をして、普通のことで喧嘩をして仲直りするんだ。子供も欲しいな。そのようなここ数年においてお決まりの妄想をしていると、自然と口角は上がってきた。

「その前に大学を確実に卒業しないとな。」

 そう呟いて目を開ける。ふと視界の端に何か黒い物体が映り込んできた。男は一瞬だけ体の機能を全て止め、それを視界の中心に捉えた。とりあえずそれは人間の形をしている。彼は体中の力を抜くと、それをつぶさに観察し始めた。

 まず、その黒が足を悪くしていることが分かった。先天的に足が悪いのか、それともここに来るまでに足を挫いたのか分からないが、それは足を引きずりながら歩いている。次に、その物体が比較的小柄だということが分かった。それは地面から腰まで七十センチほどしかなく、全身はおよそ一五〇センチほどだろう。最後に、それが中年男性だということが分かった。ここからでも見えるほど顔に刻み込まれた皺と染みは肌の手入れを怠っていたことに由来する男性特有のものであることは明らかである。

 そこまで観察し終えると、男は一息ついて彼から公園の自動販売機へと視線を移した。まるで死人みたいだな。そう思いながら片方の口角を軽くつり上げたが、その冗談めかした考えは次第に脳内で妙な現実感をまといつつあった。男は先ほどの男性のことを反芻し始める。彼の青い顔。表情も、まるで深い絶望に突き落とされたかのように、無気力に溢れていて、それに加え、彼は片足を引きずりながら体中の力が抜けたようにふらふらと歩いていた。そもそもこれほど激しい雨が降りしきる中で傘を差さず、雨に濡れることも意に介さずに歩くこと自体が正気の沙汰とは思えない。彼の髪は、耳を覆うほど長く、雨に濡れて顔に張り付いていた。また、頭頂部はぺたりと潰れ、毛根が前から後退しているのか、額は広かった。

 彼はかつてこの地で無念の死を遂げた落ち武者の霊ではないだろうか。やにわにそう思い至って背筋を凍らせたが、その反面、自身の考えがあまりにも馬鹿げていることも理解していた。確かめなければならなかったが、男の視線はどうしても自販機から動こうとしない。通りに打ち付ける雨の音に混じり、ズーッ、トト、ズーッ、ト、トン、という靴を引きずりながら歩く不規則な足音が響く。ハァ、ハァ、フー、ヘッ、ハァ、という荒い息がゆっくりではあるが、確実に男の右耳に這い寄ってくる。彼は堪らず固く目を瞑って耳を塞ぎ、それが過ぎ去るのを待った。それにもかかわらず、男の耳にはその音が聞こえ続けていた。

 アスファルトに靴をこする音は砂利に靴をこする音に変わり、荒い息づかいは男の脳を直接震わせる。そして足音は止み、荒い息づかいだけが彼に近づく。まるで誰かが肩を掴みながら顔を耳に近づけてわざとらしく呼吸しているかのようだ。その荒い息づかいの主は一瞬静かになったと思うと、大きく深呼吸をした。おそらく次の瞬間には何らかの呪いの言葉が囁かれるのだろう。男がそう思う間もなく、何かが聞こえたが、彼には理解できなかった。というのも、それが予想していたどの言葉にもあてはまらなかったこともあるが、そもそも彼は耳を塞いでいたのだから誰かが何かを言っても聞こえないのは当然である。両手を耳から離すと、最初に聞こえてきたのは自身の荒い息づかいだった。

 男はいつの間にか過呼吸を起こしていたようだった。そして、次に聞こえてきたのは相変わらずの雨音だった。例の足音はもう聞こえない。あの男性はもう行ったのだろうか、結局何者だったのだろうか、と思いながら荒い呼吸を整え、目を開いた。すると、応天門の前、砂利道のちょうど真ん中にその中年が立っていた。男は驚いて息を止めたが、よく見ると、彼はスーツを着ていた。雨を吸って一層黒くなったヨレヨレのスーツだ。スーツを着た落ち武者なんているわけがないじゃないか。男は安堵の深いため息をついた。その様子を見て、彼は足を引きずりながら砂利道を歩いてくると男から五メートルほどの所で立ち止まり、口を開いた。

「あの、大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫です。」と男は答え、少なくともあんたよりは、と心の中で付け足した。「それで、どうしてこんなに雨が降っている中、傘も差していないんですか?足の具合もよろしくないようですし。」

 中年男は、相変わらず顔色が悪く、死相というものがあるならこれのことだろうという顔をしていたが、礼儀的な笑みを作り、

「財布を落としてしまったんですよ。おそらく会社からの帰り道で。バス停で気がついたんです。でも頭の中が真っ白で、どこで落としたか分からないんですよ。おまけに傘を忘れた日に限って雨が降るし、足を滑らせて挫いてしまうし、今日は散々ですよ。」と言い、少し感情的になりながら「ほんとにもう最悪だ。会社はクビになるし、財布は落とすし、雨に降られて足を挫くし、スーツは滅茶苦茶だし、もううんざりだ!」と続けた。

 男は彼のいうことを適当に聞き流しつつ、やはり往々にして不幸は重なるものなんだな、と思ったが、通りを歩いている時はまるで生ける屍のように見えた彼が、感情的になる余裕があることにすこし安心した。男の無関心に気づく余裕もなかったのか、中年は更に会話を続けようとする。

「…はぁ。本当に、財布さえ落とさなければなぁ。本当に。せめて財布さえあれば、バスに乗って家に帰れるのになぁ。本当になぁ。」

 彼はおそらくこういうことに慣れていないのか、ひどく演技がかった言い方の中にためらいがちな調子が見え隠れしていた。乞食精神とプライドの醜い葛藤だろう。男もついにうんざりしてしまった。そのまま数秒間、彼が視線を動かさずに顔を見つめてきたため、男はポケットから二三〇円を取り出して彼に突き出しながら、投げやりに尋ねた。

「ええ、どうぞ。これでバスに乗ってください。ちなみにどちらまで?」

 彼は思いがけない施しを受けたかのような表情で、男の差し出した手を両手で掴むと、小銭をかすめ取っていった。

「白川通の方までです。それにしても、いやはや、かたじけない。この世も捨てたもんじゃありませんねぇ、私なんかにねぇ、こんなに優しい人がいるなんてねぇ。」と彼はわざとらしくへりくだって言った。

 そして、彼は背を向けて足を引きずりながら冷泉通りへと戻っていった。一度だけ男の方を振り返って会釈をすると、明るい様子で再び歩きだす。足音も心なしか先ほどより機嫌良くリズムを刻んでいた。

 男は彼の握った右手を見て、彼の手を思い返す。死人のように冷たく、固い手だった。男の右手は、まるで雪の中にしばらく突っ込んでいたかのように、冷たくなっていて、それに加え、微かな異臭をまとっている。その臭いを落とそうと、右手をスラックスに何度もこすりつけ、ポケットに突っ込んだ。そして、中年男性が去った方を見て、薄気味悪いゾンビもどきが、と漏らした。右手は冷たくて臭いままだったので、男はその手をポケットにいれ続けることを余儀なくされたのだった。


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