2.旅立ち
水晶の儀があった日から三日がたった。
朝からしとしとと涙雨のような小雨が降る、肌寒い日だった。セバスはよく磨かれた銀のトレーを脇に抱え、屋敷の奥…マクベインの私室に向かっていた。
途中、中廊下の壁にかけられた鏡が目に入り、そこで細かな身嗜みを整える。頭から足のつま先まで全身のチェックを終えると、セバスはひとつ息をつき再びゆるりと歩き出した。
……マクベインが水晶の儀を受けても属性が解放されなかったという話は、口さがない屋敷の使用人が陰口を叩いているのを通りがかりに聞いて知った。
この数日の間、街も屋敷中もその話題で持ちきりだ。
こそこそと無神経に繰り返されるマクベインの話題。そのどれもが彼を嘲るものばかりで些かうんざりする。
そしてあの日を境に、当のマクベインは自室に籠りきりになり、食事の席にすら顔を見せなくなってしまった。せめて少しでもとセバスが簡単な軽食を部屋の前に置くようにしても、手をつけた様子すらない。
これまでマクベインを、「将来の大魔導士」「他に類を見ない鬼才」と散々持ち上げておいて、無属性だと分かった途端に手のひらを返すように態度を冷たく変えた邸の者達。…そんな情のない人間に対し思うところがないわけではなかったが、それも当然と言えば当然なのかもしれなかった。
なにしろマクベイン自身は魔法以外のことに関心が薄く、これまで自分以外の使用人と会話らしい会話はおろか、声すら聞いたことがない者もいるという始末だった。
使用人との信頼関係のなさは、マクベインが無属性と判明するや否や、そのまま蔑みへと直結した。これまでマクベインの私室の前を通ることのなかった使用人が、マクベインの部屋の前で嘲笑の声をあげているのを見た時は、頭から氷水をかけられたように全身がスッと冷たくなった。そして、その陰険さの前に晒されているマクベイン自身を思うと酷く胸が痛んだ。
窓に当たって弾ける雨音に混じって、カツ、カツという硬い靴音が近づいてくる。廊下の先からこちらへ向かって歩いてくる人影に気がつき、セバスは立ち止まった。サッと端に寄り、身体に染み付いた習慣で軽く頭を下げる。そのまま通り過ぎると思った足音が、セバスの前で静かに立ち止まった。
「……あの役立たずはまだ引き篭もっているのか」
こちらの顔も見ないまま吐き捨てるように問いかけられる。冷ややかなその声に、セバスはゴクリと唾を飲み込んだ。目線だけを上げてその人物を見る。
少しのしわもない服、神経質なまでにきっちりと後ろへなでつけた髪。マクベインと同じく整った顔をしているものの、どこか冷たい印象は拭えない。マーリン家現当主正妻の嫡男、四重詠唱者の異名を持つ男。
ヘンリー・スティング・マーリン
ヘンリーには、自他ともに認める魔法の才能があり、四属性を有する極めて優秀な魔導士としても広く知られている。
……確か以前は、マーリン家の次期当主はヘンリーだと噂されていたが、マクベインが産まれ、いつの間にかその話も立ち消えていた。三日前、マクベインが無属性と発覚するまでは……
「マクベイン様は、未だ体調が優れないご様子で……」
言葉を選びながら下手な言い訳をする。「体調…ね」と口許に指を当てて反芻するヘンリーの口から、ククッという押し殺したような笑いが漏れた。
「役立たずの分際でいい御身分だな。未練がましくマーリンの名にしがみつく異物が。所詮は下賎な女の血筋というところか。……いいか、これ以上栄誉ある我がマーリン家の名を穢す様であれば、すぐにでもこの家から叩き出すとあの無能に伝えておけ」
……マクベインを侮辱する、悪意を煮詰めたような言葉に胸がひやりとする。勝ち誇ったように言い放たれても、何も言い返すことができない。自分のようないくらでも取り替えの効く人間には、この場を荒げずやり過ごすことしかできない。
湧き上がる悔しさに蓋をするために、奥歯をぐっと食いしばる。
セバスが言葉に詰まっていると、ヘンリーは言うだけ言って気が済んだのかフッと呆れたようなため息をついた。「お前も、それ以上あいつを甘やかすな」とセバスに対しても釘を刺し、ヘンリーは早々にその場から去って行く。
男の姿が完全に見えなくなってから、セバスは短くため息をついた。
今のマクベインの状況に対し、ヘンリーが殊更暗い喜びを持っていることは誰の目から見ても明らかだ。
そしておそらく、これまでの憂さを晴らすようにマクベインの悪い噂を流しているのも……
……マクベインは、現マーリン家の当主である父親と愛人との間の子、庶子にあたる。
邸の者がこれまでそこに目を瞑り、ヘンリーを差し置いてマクベインを持ち上げてきたのは、ひとえにマーリン家において魔法の才能こそが重視されていたからだ。
……考えているだけで頭が痛くなってくる。セバスはこめかみを指で押さえた。
ヘンリーだけではない。ここには元々、マクベインの魔導士としての資質にしか関心のなかった連中しかいない。そしてマクベインが無属性だとわかった今、誰もがその存在自体が目障りだとばかりに排除しようとしている。
……自分は、自分だけはマクベインの才能が魔道士としてのそれだけに収まらない事を知っている。
魔法に対する飽くなき探究心を持つ彼は、魔法に関する造詣が深い。魔法自体は扱えなくとも、魔法研究の分野に進み、研究者としてやっていく事もできるだろう。それだけではない、マクベインは頭脳も明晰だ。貴族として政事や、領地経営について今よりも深く学び、やがて補佐につくことで必ず領地に繁栄をもたらしてくれる筈だ。
剣の腕も良い。今はまだ最低限の剣術しか学んでいないが、剣士としても彼は充分にその才能の片鱗を見せていた。
どの分野においても、マクベインは磨けば光る原石だ。こんなところでいたずらに曇らせて良いはずがない。
マクベインは、使用人のセバスに対しても高慢な言動を取ることはなかった。
いち使用人にすぎない自分の意見に真剣に耳を傾けてくれるのは、この邸でマクベインただ一人だった。
自分はそんなマクベインを心から敬愛し、彼の執事であることに誇りをいだいている。
今、魔導士としての道を断たれ、拠り所をなくし打ちのめされているであろうマクベインを励ますことこそ、自分に課せられた使命なのだ。
決意を新たに、マクベインのいる部屋の前でセバスは立ち止まった。扉の横には、今朝セバスが用意したオープンサンドが手付かずのまま残っている。
扉を軽くノックする。反応はない。扉に顔を近づけてみても、中からは物音どころか人の気配らしいものを感じない。
まさか…とは思うものの、自死……のニ文字が頭をよぎり恐ろしくなる。
雨がだんだんと激しくなってきた。屋内に居ても、屋根や窓硝子に弾ける雨音がザーザーとうるさいほど鳴り響く。セバスはその雨音に急き立てられるように扉に手をかけた。
カチャリと音を立てて……扉が開く。鍵がかかっていないとは思わず、驚いてまごつく。
音を立てないようにゆっくりと扉を開ける。
シンとした暗い部屋の中、中央に立つ人影が、俯けていた顔をノロノロと上げてこちらを向いた。ひとまずマクベインが生きているという事実にほっとした後、扉から差し込む光に照らされたマクベインの顔を見てセバスはギョッとした。目の下の隈がくっきりと濃く、まるで病人のように顔が青白い。マクベインの顔の輪郭が露になると、削げ落ちた頰の肉が痛々しくセバスの目に映った。
吹けば飛びそうな男の姿を見て、胸が潰れそうになる。
男の身体がグラリと揺らいだ。
「マクベイン様!」
セバスは脇に抱えたトレーを放り出して、マクベインに駆け寄った。男の肩を抱き、労わるようにベッドのふちに腰掛けさせる。されるがまま、まるで棒切れのように痩せたマクベインの手を握って跪くと、セバスは目の前にある男の顔を見据えた。
「マクベイン様、……今はまだ、魔導士の道を諦めきれないこと、このセバスはよく、よくわかっております。ただ、これだけは知っていてほしいのです。貴方様は例え魔法が使えなくとも、多くの才能がございます。そしてそれを活かすことのできる数多くの道があるのです。確かに、魔導士の道が絶たれてしまった事は耐え難いほどお苦しいのでしょう。しかし、このままでは……いつこの家から追放されることになるやもしれません。そうならない為にもこのセバス、微力ながらマクベイン様に御助力できればと考えてございます。何卒、御気を確かにしてくださいませ」
部屋の中が張り詰めたような沈黙に包まれる。言葉は選んだものの、反感を買うことは覚悟している。自分は、マクベインのどんな言葉でも受け止めるつもりだった。
長い沈黙の後、マクベインは虚ろな目をゆっくりとセバスに向けた。
「……セバス」
「はっ!」
「うるさい」
「……は?」
呆気にとられたセバスの前で、マクベインは無言のままスッと立ち上がると、ゆったりとした仕草で髪をかきあげ、ふーっと深く息を吐き出した。
「セバス、私は大魔導士になる」
…聞き間違いだろうか。セバスは思わず「んっ?」と声を上げた。
「マ、マクベイン様……?」
「私は大魔導士になる」
繰り返される言葉。聞き間違いではないようだ。
「ですが、マクベイン様は…」
続けようとした言葉を飲み込む。冗談には聞こえない。いやそもそも、これまでにマクベインが万事において冗談を言ったことなど一度もない。
マクベインの指先が、机の上に一冊だけ置かれた本の表紙をなぞる。それは水晶の儀の前に、マクベインが夢中で読んでいた本……だろうか。マクベインの横顔はうっすらと笑っているようにも見えた。
「何も自暴自棄になってこんな事を言っているわけではない」
マクベインは手に取った本の表紙をこちらに向けて続けた。
「…希望はここにある。ちょうど無属性についての研究には興味があったんだ。今後は無属性について研究し、……いずれ無属性魔法という新たな魔法形態を確立してみせる」
セバスはしかし……と呟きかけ、マクベインの目の真剣さに気がついて口を噤んだ。これを、否定してはいけない気がした。
「セバス……今までありがとう」
本を胸に抱えたマクベインがこちらを見据える。その目にはもう、憂いは欠片も残っていないように見えた。
「私は……大魔道士になる。これをただの夢で終わらせるつもりはない」
翌朝は、前日の嵐のような天気が嘘のように、朝から雲ひとつない晴天となった。
セバスがマクベインの部屋を訪れた時には既に、そこにマクベインの姿はなく、がらんとした部屋が残されていた。