7月31日 ― 別離
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ただ、無言で車を走らせていた。後部座席には、長袖を着て、手袋をした百瀬が、座っている。
高速道路を抜けて、ひたすら北へ。その時俺は、去年の夏のことを思い出していた。
去年の夏――百瀬と、二人で車を借りて、旅行に行った。あの時、俺は免許を持っていなかったから、百瀬だけが運転して。渋滞に巻き込まれて、長いこと運転をすることになった。疲れた百瀬は、深夜のパーキングエリアでラーメンをすすりながら、文句を言ったんだった。
「来年はお前が運転しろ! 早く免許取れ!」
それがまさか、こんな形で。
景色は田園風景に変わっていき、さらに森と山が広がる自然へと続く。人の姿もまばらになってくる。これ以上は車では進むのは難しいだろう、というところで、車を停めた。そして二人で、スマホのGPSを頼りに、山へと進む。
「……本当に、これで良かったのか?」
「……ああ。もう、無理だからな」
タートルネックと、マスクで顔を隠していた百瀬だったが、さすがに息苦しいのか、マスクの方は外した。その頬にうっすらと、筋のようなものが入っている。額には、昨日から大きな絆創膏が増えていた。
「……行こう」
俺は何も言わず、百瀬の後ろを歩いた。
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――7月25日
両腕に、ぎょろぎょろと動き回る目がついた、おぞましい百瀬の姿を見て、思わず後ずさった。だが、俺以上に恐怖に震える百瀬を見て、ありったけの精神力を振り絞り、その姿を観察する。見て、気配を感じて、そして。
よく知った親友の気配と、人でない気配が混ざって一つであることを、知ってしまった。
「こんなの、こんなの、化物だっ……! 俺は……」
百瀬は、両親がいない。捨てられていたのを、施設で育てられたと――身元が不明な小さな捨て子として、今の名前を貰ったと――
最初から、そうだったのだろうか。夕焼けの教室で、初めて会った時から、百瀬の中には、その小さな種があったのだろうか。
体を震わせて泣いていた百瀬だが、頼む、お前にしか頼めないんだ、と掠れた声で言った。
「俺はもう人間として生きていけない。だから、俺がここから消える手伝いをしてくれないか」
「そんなことして、泉さんは、どうするんだよ」
「真紀がいるからだよ」
人間であった時からの両の目からだけ、涙が零れて、血の痕の横に染みを作った。
「他の誰も俺がいなくなったところで、心配なんかしない。でも、真紀だけは別だ。真紀に知られないように――いや、俺が化物だって、真紀に知られないように、いなくなりたいんだ」
「……。」
何もかも見つけられるお前なら、誰にも見つからない場所に俺を隠せないか。
――誰もこの姿を見ないように、誰にもこの姿が見えないように。
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――7月30日
炎天下の中、走って百瀬のアパートに向かう。百瀬から預かっているアパートの鍵で中に入り、百瀬に呼びかけた。
「百瀬、俺だ。今から泉さんがこっち来る」
「おい、止めてくれよ」
締め切った部屋の中で、両腕を隠す長袖を着た百瀬が、部屋を片付けていた。部屋の片付けはあらかた終わっている。
「事情が話せないんだぞ。俺が止めるのは不自然だろ。前みたいに隠れてやり過ごしてくれ。すぐ出ていくようにする」
「……。真紀に、……いや。――もう、片付けは終わる。明日――ここを出る」
百瀬はゆらり、と立ち上がって、襖を開ける。押し入れに入る百瀬の後ろ姿が、そのまま影に溶けてしまいそうで、俺は思わず呼び止めそうになる。
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登山道はなくなって、道なき道を歩く。森が深くなってきた。
それと同時に、俺の中の方向感覚が曖昧なものになっていく。霊的なものが、俺の霊感をかき乱すのかもしれなかった。
「……水落。ここまででいい。これ以上深くまで行くと、お前が危ない」
「……百瀬」
「ま、お前なら、ダウジングでも何でも使って、道を見つけるんだろうけどな」
その口調は、いつも通りで、俺は何も言えなくなる。
岩手県遠野地方――百瀬が自分の行き場所として選んだのは、妖怪の伝承が数多く残る、山だった。そこに行きたい、と。
そんなの、樹海に入って自殺するのと変わらない。俺にそんなことを手伝えというのか。他に方法はないのか、と詰め寄った俺に、百瀬は、自分の手首を見せた。
「自殺? 死ねないよ。……一度は、死のうとしたんだ」
剃刀で切りつけたような、引きつれた手首の傷。それは、大きな瞳となって俺を見上げていた。
百瀬が俺に頼んだことは多い。人前に出られない百瀬に代わって、百瀬の代わりに色々な手続きをした。百瀬を隠しながら、山奥に連れてきた。
そして、これからは、百瀬に繋がる痕跡を、徹底的に探すことになっている。泉さんは、百瀬の捜索願を出している。何か手がかりが残っていて、それを辿られないように、俺の手で、消すためだ。
これは俺の保身のためでもある。俺も、百瀬の失踪に関わっていることが知られたら、無傷ではいられないからだ。
「よろしくな……頼んでばっかりで悪いけど、真紀のこと、よろしく頼むよ」
「わかってる……」
「ああ、そうだ。お前のあの青い石、ちょっと見せてくれよ」
俺がいつも使っている水晶を渡すと、百瀬はそれを少し握りこんでから、俺に返した。
「どうかしたか?」
「いや。……じゃあ、そろそろ、行くよ。ありがとな」
じゃあな。
百瀬は、最後は、泣き笑いのように、無理矢理、顔を歪めた。
沢の水で苔蒸した岩を超え、歩いていく。その後ろ姿が、森の奥に消えていく。
「――じゃあな……」
蝉の声が降ってくる。川の水が流れる音、木々が揺れて擦れる音。圧倒的に世界が迫ってきて、目眩がしそうになる。このまま、森の中に迷い込んでしまうような。
それでも、俺は背を向けて、山を下りだした。
俺には、まだやるべきことがある。それがどんなに心に傷を残すことでも――たった一人の、親友の頼みだから。
どこか冷たい風が、通り抜けた。
夏の終わり。
大学が始まって、構内で水落の姿を見つけた由佳は、嬉しくなって駆け寄った。
今年の夏、連絡を取っても「色々忙しい」と返されていて、長いこと会っていなかったのだ。
「先輩、お久しぶりです」
「ん、……ああ、久しぶり」
由佳は、水落と違って普通の感覚を持つ女性だ。その表情や仕草だけで、何かを読み取れるわけではない。だが、由佳は、彼――水落に、どこか違和感を覚えた。何かあったのかな、そう思わせるくらいには。
「先輩。この後、時間があれば、久しぶりに、お茶でもしませんか?」
「……いつものとこでいい?」
「はい」
由佳は柔らかく笑って、水落の横に並んで歩くと、自分の夏の思い出を話し始めた。水落はそれを相槌を打ちながら、いつものように聞いていた。
「――ありがとう」
「え、すみません、今何か」
「何でもない」
囁くようなお礼の言葉は由佳の耳に届かなかったが、ただ……何を言われたのかは、何となく分かるような気がしていた。
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作中で水落が読んでいる妖怪の本は、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』をイメージしています。日本妖怪のイメージを作ったともいえるその絵はWikipediaで見ることもできます。
ただし、百々目鬼は鳥山石燕の代表作である『画図百鬼夜行』に載っていないため、作中で具体的な本の描写は避けました。
(その続編ともいえる『今昔画図続百鬼』に記載があり、それ自体は鳥山石燕の創作とも言われています。なお、鎌鼬は『画図百鬼夜行』に載っています。)
お読みいただき、ありがとうございました。