7月6日 ― 異変
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「お先失礼します」
数彦はそう言って、現場を後にした。汗がまとわりついて不快だから、早く自分の部屋に戻ってシャワーを浴びたかった。だが、今日は予定があるので、家に帰る前に、コンビニに寄って酒とつまみを買った。
酎ハイ数本に、ポテトチップス、プリンという組み合わせを買って、数彦は自分のアパートに戻った。ボロいアパートは壁が薄く、隣のテレビの音が聞こえてきたが、家賃が安いのだから仕方ない。
数彦はこのボロアパートに不満はなかった。自分の部屋があるだけ、十分だ。
シャワーを浴びて、スマホを見ると、もうすぐここに来る友人から通知が入っていた。
『そろそろ行くけど大丈夫か?』
昔から色々なことに気付くからか、細やかな奴だ。早く来いよ、と返信して、数彦は買ってきた品をテーブルに並べた。少しして、ガチャ、と玄関の戸が開いた。
勝手知ったる風で入ってきたのは、数彦の、小学校以来の親友――水落だ。
「お、来たな」
「おー。というか、もうプリン食ってるのかよ……」
水落は、数彦が食事代わりにプリンを食べているのを見て苦笑する。
「いいだろ。疲れてる時は甘いもんがいいんだよ。水落こそ、また同じ餃子買ってきてるだろ」
「これ美味いんだって。台所借りるぞ」
水落は、餃子をフライパンで温め始める。今日は、久しぶりに数彦の家で宅飲みすることになっていた。
今は大学に進学している水落と、定時制高校を卒業後、今は建設現場で働いている数彦は、会う機会こそ減ったが、数彦にとっては唯一とも呼べる親友だ。
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百瀬数彦には、両親がいない。小さい頃から施設で育ってきて、恐らくは出自の不明な捨て子だったのだと思われた。
就職にあたって住民票を出すことになり、その時様々な書類を取り寄せる上で理解したが、百瀬には親類と呼べるものが一切ない。恐らく、出生不明だからと戸籍は適当な名前で作られたのだろう。
施設の職員の人たちは優しかったが、不自由がないわけではなかった。
子供心に、自分が施設出身だということは隠していたが、家に遊びに行きたいと誘われれば断り、授業参観や運動会などのイベントはいつも一人で、出来合いの弁当を食べていた数彦に、家庭がないことが知れるのは早かった。
残酷なもので、数彦は簡単に、いわゆるイジメの対象になった。
仲間外れにされることは構わなかったし、むしろ都合がよかった。自分だけついていけないゲームやアニメの話をされても退屈なだけだ。ただ、物を隠されるのはつらかった。
施設から文房具は渡されているが、無駄にする余裕はない。毎回毎回失くしました、ではすまされない。
施設の先生に「自分は施設育ちで親がいないから、皆に意地悪で物を隠されます」と言えば分かってくれるだろうが、それを言うのは数彦のプライドが許さなかった。だから、毎回、学校中を探し回ることになるのだ。
クラスメイト達も、必死に探し回る数彦が面白いのか、絶対に見つからないように持ち帰って捨てたりすることはない。日が暮れるまで探し回って、それでようやく見つかるような場所に隠してくるのだ。
「くそっ……」
夕焼けの差し込む教室で、机から、掃除用ロッカーから何から探し回って、数彦のノートはまだ見つからない。数彦は奥歯を噛みしめた。
そこに入ってきたのが、当時、隣のクラスにいた水落だった。
「……。そこ、時間割の裏」
「え?」
いきなり教室に入ってくるなり、気まずそうに言った男の子の言う通り、数彦が壁に貼られた時間割の裏を調べると、ノートがガムテープで壁の裏に貼られているのが見つかった。
数彦は呆然として尋ねた。
「……お前、何でわかったの」
「違う! 俺が隠したんじゃない!」
数彦の予想に反して、その男の子は大きな声を出した。が、数彦が目を丸くしているのを見ると、水落は視線を足元にやって、ぼそぼそと言った。
「……隣から、隠す時の声が聞こえてきたし。時間割が、変に膨らんでるのが、見えたから」
「……。」
数彦は時間割を見た。ノート一冊分の膨らみなんて、数彦の目には全然分からなかった。声の話にしても、隣の教室から聞こえるような大声で、あいつらは話していたとは思えない。
ただ、水落の言っていることは本当のようだった。
「教えてくれて、ありがとう。……えっと? すい、らく?」
名字の読み方が分からず、数彦が尋ねると、男の子は短く答えた。
「水落って読む」
「……俺、百瀬」
「うん」
その日、数彦は水落と一緒に帰った。水落は、日本家屋のような立派な家に住んでいて、数彦はちょっと驚いたが、門に入る前、最後に振り返って、何かを言いたそうにしていた。
それから、数彦の隠されたものを、水落がことごとく簡単に見つけるようになって、クラスメイト達は、つまらなくなったのか数彦のものを隠さなくなった。
一緒にいるうちに、数彦と水落には共通点が多いことが分かった。
水落もまた、両親を知らず、祖母の家で暮らしていること。感覚が鋭すぎて、クラスメイト達とうまく馴染めないこと。それは、自分にも覚えのあったことだった。
数彦にとって、水落は唯一といっていい、友人になった。
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数彦が、酎ハイを片手に餃子を食べながら言った。
「あー。どっか旅行とか行きたいよな。水落、お前も免許取ったんだろ?」
「運転する機会ないから、完全にペーパーだけどな。百瀬の休みに、どっか行くか?」
けど、と水落は笑う。
「彼女さんに悪いしなー」
「あー、真紀とも話したけど。夏は都合が悪いって」
数彦の恋人の、真紀は、接客業をしているため、なかなか休みが合わない。加えて夏は、ハイシーズンだから、休みが取れないのだという。
「ふーん、それで仕方なく俺と行くと」
「あ? 水落だって、気になってる子がいるって話はどうなったんだよ。まだ何もしてないのかよ。純情すぎんだろ」
からかいに返すと、水落は黙って発泡酒に口をつけた。昔から、恋愛沙汰には奥手な友人だ。
数彦が笑っていると、ふと、水落が、数彦の腕に目をやった。
「あれ? それ、傷か?」
「ん?」
水落の視線を追って、数彦が自分の腕に目を落とすと、2、3センチほどの、切れ込みのような筋が入っていた。どこかで切ったのだろうか。数彦の仕事は現場作業だから、どこかで気付かないうちにぶつけてしまった可能性がある。
「何だろうな。仕事中に、どっかで切ったんだろ」
「痛くないのか?」
「ああ」
腕の傷を指で押したが、血が出るわけでもなく、痛みがあるわけでもなかった。そもそも、どこで怪我したかも思い出せないくらいだ。大したことはないだろう。
だが、水落は目を細めて、数彦の腕を睨むように見る。
「……。その傷、さっきあったか?」
「ん? さあ。俺も言われるまで気付かなかったし……」
気にするなよ、と数彦は言ったが、水落はどこか納得していなかった。