百記者夜行(三十と一夜の短篇第21回)
仮眠室で眠っていた矢代のもとに守衛がやってきた。
「警視庁の乙原さんからですよ」
矢代はガラス玉電球の吊り下がる廊下に出て、ふと窓を見た。髪の毛が跳ね不精髭が散った自分の顔が窓ガラスに鏡のように映っていた。外は光一つない暗夜だった。時計は午前三時半を差していた。
「心中です」警察記者の乙原の声は上気していた。
「誰が?」
「神田乱介が旅館の女中とやりました。場所は世田谷です。入水です。カメラマンと文芸部の記者をお願いできますか」
「わかった。車はどこにまわせばいい?」
「警視庁じゃなくて、法務省のほうにお願いします。他の記者に勘づかれたくないですからね」
矢代は電話を置くと、守衛に写真部の宿直を呼びにやり、その足でデスクの佐々のもとへ行き、事情を説明した。
「この半月、ストもパージも殺しもなくて、進駐軍も大人しいときて、ネタ日照りだったからなあ」佐々はどこかのんびりとしたともとれる調子で言った。「神田乱介はこれが初めてじゃなかったな?」
「戦争前に二度、未遂をやってます」
「三度目の正直か」
「そういうことになります」
よし、と佐々は手を合わせた。
「じゃあ、現場に行ってくれ。神田乱介の家と女中の旅館に記者を一人ずつやっていく。文芸部は誰を連れていくつもりだ」
「乙原を拾ったら、世田谷へ行く途中で大江を連れていきます」
社会部の部屋を出ると、オイルスキンのカメラバッグを入れたカメラマン坪島とばったり出くわした。二人はそのまま階段を下りて、駐車場に開いた露台へ出ると、大型のビュイックが一台停まっていた。
まるで銀行強盗でもしたように大急ぎで車に乗り込むと、運転手に法務省までやってくれ、と言って、車は日比谷へと出ていった。公園も建物も灯火管制を思い出させる静かな夜に息づいていた。濠端へ出ると左へ曲がり、警視庁を右手に見ながら、黒い山並みのような法務省の影のなかに乙原と若手の杉見の姿を探した。二人が乗り込むと、ビュイックは一気に狭くなった。坪島はカメラを守ろうとバッグを巣の卵のように両手で囲み、ちくしょう、狭いったらねえぞ、とぼやいている。ここに大男の大江が渋谷から乗り込むと思うと、先が思いやられた。
「駄目だ、他の新聞に気づかれた!」乙原が開口一番言った。
「気づかれたか」矢代は助手席で頭をふった。
「矢代さん。これからは時間との勝負ですよ。一番最初に現場に着いたやつが記事をものにできる」
「文芸部の大江を叩き起こして連れていくつもりなんだが」
「時間がもったいないですよ」
「だが、死んだのが神田乱介なら文芸部は連れて行かないとなあ。このなかに読書家はいないだろうし」
「書く仕事は読む時間を食ってしまう」
「ともあれ、センセーショナルな事件だ。この自殺を文芸視点で論説をつくれる記者がいないと、一番乗りしても内容が薄まる。大江は連れていくぞ」
「矢代さん。どうしても大江さんじゃなくちゃいけませんか?」このなかで一番若手の杉見がおずおずとたずねた。
「どうして?」
「大江さんは体がでかいですから。せまいじゃないですか」
「馬鹿言ってんじゃねえぞ、杉見」乙原が怒鳴った。「大江以外の記者を拾いに行くんじゃ遠回りだ。大江は渋谷に住んでるから途中で拾っていける。それに大江はベテランだ。だから、あいつを拾う」
「わかりましたよ。そんなに怒鳴らなくてもいいじゃないですか」
「おれは怒鳴ってなんかいねえぞ。おれは地声がでかいんだ」
「おい、雨が降ってきたぞ」カメラマンの坪島が窓ガラスに当たった水の玉を見て言った。
「くそ、なんだよ。レインコートなんて持ってきてないぞ」
「取りに戻る時間もないときた」
雨足は渋谷へ下るうちに強くなり、アメリカ製の頑丈なワイパーが引っ切り無しに雨粒を拭いた。外は相変わらず濃い闇夜だった。ヘッドライトの投げかけた光のなかで雨が弾けていた。家は見えなかったが、瓦を打つ雨の音が激しく、町から個性を奪ってしまった。店も民家も大きな建物も夜のなかで顔を失って、自分たちが今、どこにいるのかが分からなった。一番槍を突こうという焦燥で男たちはじりじりし、頭のなかで現場を自分が書くべき記事、取るべき写真、そして刷り上がった紙面を想像し、夜の町を叩く雨のなかでもどかしく足を何度も踏み、指先でガラスを叩き、ライトの向こうに広がる闇を睨みつけたりしていた。今宵、まず大江を手に入れなければいけない。大江を見つけて、車に乗せて、世田谷の上水へ行くのだ。
生垣に挟まれた道を走り、金王神社のそばにある大江宅に着くと、大江がレインコートを着て、門の前に立っていた。矢代が後ろの席に移り、大江が助手席を占領したので、後ろの席に座る面々はパン生地に練り込まれ、ぎゅうぎゅうにこねられるような思いをした。
「そろそろやると思ってたんだよ」大江は柔道選手みたいな肩をいからせた。「真夜中に電話がなった瞬間、あ、とうとうやりやがったな、と思ったんだ。神田乱介は結局、戦後の日本を生きるには不器用過ぎた。戦前のころだって窮屈な思いをしたはずだ。まあ、いい作家ってのは遅かれ早かれこうやって自ら命を絶つもんだ。それにしても、神田乱介がなあ。死んじまうとはなあ」
最初のころは千里眼を的中させたみたいにはしゃいでいた大江が最後のほうになると、気分が沈んだ。雨はますます強くなり、いつのまにか車は民家のない田舎道を走っていた。
「これじゃ今どこにいるのかわかりゃしない」運転手がぼやいた。
ライトに見える道は狭まり、泥を跳ねた。車は細い水路のそばを通り、やがて小さな土の橋を渡った。田圃から流れ落ちる水で水嵩の増えた水路は橋の桁にぶつかって盛り上がり、分かれた水がぐるぐるとまわりながら、闇のなかへと滑っていった。
車は道に迷っていた。同じ水路を渡り、同じ田圃の横を通り、同じ溝川にタイヤを取られかけていた。そうしているあいだにどこかよその自動車のヘッドライトが闇夜のなかに一つ二つ――七つ八つと深い海の底から浮き上がった土左衛門のように現れて、男たちを焦らせた。他の新聞社の自動車に違いなかった。そのヘッドライトは二匹の番いの妖怪みたいに並んで動き回っていた。彼ら同様、事件を狙っているその番いの妖怪たちに矢代以下T新聞社の男たちは敵愾心をむき出しにした。功名の如何は一番槍をつけられるか否かにかかっていた。一人の男の死にざまが水にあふれた世田谷の田野を餓鬼たちの蠢く煉獄に変えていた。事件と独占に飢えた男たちを乗せた自動車が何台と目を光らせて歯ぎしりし、一人の男の骸が横たわる岸辺を探していた。神田乱介の書いた小説も、死を選んだその恋愛も、心中の相手すらも今の彼らにはどうでもよかった。そんなものは一番槍をつけた三十分後の自分たちにまかせればいい。今の自分たちが欲しいのは一人の男の死体。気鋭作家の溺死体だった。ただ、運転手だけが車の心配をした。橋を渡るたびにガコンと大きな音を鳴らして、車体が壊れはしないかと心配していたし、田圃の道を走るときも、溝川にはまらないように神経を張らなければならなかった。
光が世田谷村へ入り、出ていき、また入っていった。自動車の数はどんどん増えていた。
「これだけ新聞が来てるのにまだ現場に着かないってのはどういうことなんだろうなあ」
「神田乱介はやると思っていたよ。必ず」
「一度入れば出ることは叶わない――」
「このあたりと来たら、まるで迷路じゃないか」
「浮かび上がる死体。沈み込んだ死体」
「もう、おれたちは神田乱介の作品を読むことはできないのだ」
「これだけ水があるのだから、昼はさぞ風光明媚なことだろう。だが、昼の世界が思い浮かべない。なぜか?」
「お、あれ見ろ」
ライトのなかに警察車両の後ろが照らされた。三台のパトロール・カーが一列に並んで、木立のそばに停車していた。道はその先にもあるが、幅が狭く車は入れないようだった。
車を停めると、激しい雨も構わず、矢代たちは飛び出した。そして、水を吸った重たい衣服を引きずるようにして、車道の先の藪が左右に茂った道へ入った。懐中電灯で照らした地面には葦や蒲が倒れて重なり水に浸っていた。前方の暗闇に懐中電灯が投げかける光が見え、急な斜面に挟まれた水路が光を吸い込む様子を見つけると、矢代たちはろくに足元も確かめないまま走った。
矢代たちの思った通り、そこには制服警官たちが懐中電灯を手に水路沿いの草むらに棒を突いて、遺留品を探していた。私服刑事が二人、水路の幅が広がった堤の上に立っていた。警官たちは現場から記者を追い出そうとしていたが、どの道、どうやったって記者たちは入ってくるのだから、それほど熱心に追い返そうとはしなかった。
警察記者の乙原はその二人の刑事と顔見知りだったので、神田乱介の死体のところへ連れて行った。二人の死体は川のそばの盛り土の上に転がっていた。ゴム引きの布がかけられていて、死体に近づくことは許されなかったが、刑事の話では二人はお互いを赤い紐できつく結び合わせて、水路に飛び込んだらしい。水路自体は幅も深さもそれほどないから、薬を飲んだに違いないと推理を披露していた。
「靴がそこに」と刑事は下った斜面の先の砂地を指差した。「革靴と雪駄が並んでいた」
「靴の色は?」
「チョコレート色だ。見つけたときと同じままにしてある」
「写真を撮っても?」
「駄目と言われても撮る気だろ? まあ、いいさ。あんたたちが一等賞取ったんだから。ただし、動かしたり触ったりはしないでくれ」
矢代と坪島が水路の岸辺へ降り、チョコレート色の革靴と雪駄が仲良くちんまり並んでいるのを見つけた。矢代が懐中電灯を当て、坪島が写真を撮った。
また堤の上に戻ると、矢代はあらためて死体を見た。実際カバーの下から見えるのは靴下を履いた神田乱介の足だけだった。坪島はマグネシウムを盛んに焚いて、カバーのかかった死体とそばの水路へ通じる坂を撮った。乙原は現場のまわりと見て回り、記事の叩き台を作ろうとし、杉見は第一発見者という近所に住む老人が警察自動車で待ってもらっていると教えられ、来た道を戻っていった。矢代と大江は早速手帳を取り出し、分かっていること――第一発見者の名前、女中の名前、遺書がまだ見つかっていないこと、二人は薬を飲んで入水したことを書きつけた。
「遺書がないのか」大江が言った。
「まだ見つかってないらしいな」と矢代。
「それは痛いなあ。遺書は言ってみれば、神田乱介の最後の著作だ。できることなら全文載せたい」
「女中の旅館と神田乱介の家に記者が言っている。遺書が見つかれば、そっちに引っかかるさ」
「僕はここではなく、遺書のあるほうに行くべきだったかもな。正直、あれはただの死体だ。でも、遺書は文学だ」
「車を出すことはできない。おれたちもここで見るべきものを見たら、大急ぎで社に戻らないといけない」
「それは分かる。悔しいのは自分の浅はかさだよ。センセーショナルな死体のほうにばかり気を取られて、遺書のことをすっかり忘れるなんて、まったく僕は馬鹿だよ」
「仕方がない。あんなふうにライバルたちが大勢集まったんだ。気もはやる」
乙原がいそいそと帰ってきた。
「記事にできるだけのものはとってきた。監察医も自殺で間違いないと言ってる。他の社の連中がここに気づいて殺到したら、車を出せなくなる。矢代さん。大江さんと先に帰ってくれないか?」
「分かった。何か新しいことが分かったら知らせてくれ」
矢代と大江は自動車のところへ戻り、濡れ雑巾のようになって現場を後にした。
矢代たちの自動車とすれ違う形でS新聞やA新聞社の車が水路沿いの堤へ走っていった。雨はいつの間にか小雨になっていて、薄暗い雲の下で地形が輪郭を取り戻しつつあった。時計は午前五時半を差していた。
他社の記者たちを乗せた自動車が次々と事件現場へ――カバーのかかった神田乱介を撮影し記事にするために走っていく。矢代たちはこの世界で唯一、現場から立ち去っていく自動車に乗りながら、広々と余裕のあるビュイックの座席で水に濡れた体を落ち着けた。
厚い雲の裂け目から一筋の曙光が差した。灰色の空間を燃やす、その金色の光は細い水路や田圃の鏡のような水面に明るく白んだ雲の影を映させ、弱くなった雨の細かい針のような降り方を茜色のヴェールに変えた。
木立、小さな祠、茅葺きの百姓家。漆黒の夜から色が復活し、朝が来る。昨夜死んだ人間がいて、今朝生きている自分がいる。その単純な図式が不思議と矢代の心を打った。
「ああやって遅れて現場に行く車を見ると」と大江が言った。「もったいない気がしてくる。もう少しあそこにいるべきだったかと」
「おれは逆だな」矢代はフロントガラス越しに差す朝日に目を細めた。「実はあそこを離れることができて嬉しいんだ。これでおれもめでたく、人間に戻れた気がする」