黒革の手帳とはよく言った物だ
岩井田所長が警視庁時代、一度だけ会った京都の元舞妓「柴崎一枝」
歳は取ったが美しさは変わらない、そんな一枝がとんでもない依頼をして来た。
4月某日、興信所に1人の美熟女が現れた、飛田は何の事は無くいつもの調子で事務所でゲームをしているが、岩井田は違った、その女の名は柴崎一枝、岩井田が公安の刑事をやっていた時代に1度会っている。
◇
もう20年以上前になるだろうか、大きな誘拐事件の解決に携わっていた岩井田を含めた特捜班は、柴崎一枝の実家である小料理屋で犯人グループの密会がある事を突き止め、特捜班メンバーが入れ替わりで客を装って張り込みに行った。その際3度目の来店で、店を手伝っていた店主の娘である一枝が、父である店主に聞こえない様なボリュームで岩井田に声をかけて来た。
「間違っていたらすみません、もしかして刑事さんですか?」
岩井田はまさか仲間の誰かがうっかり口を滑らせたか、あるいは張り込みに行った連中が店員に聞き込みでもしてしまったのか、しかし公安ともなれば家族にすら自分が今公安局に所属している事を明かさない、何故刑事だと分ったのか…と考えながら笑顔で返事をした。
「まさか、銀行員ですよ、刑事ですかー、そんな風にみえました?」
一枝は申し訳無さそうな様子で、小声で答える
「いえ、凄く刑事さんっぽいと言うか、2階をいつも予約される方が、お客様と入れ替わりで来なくなっちゃって、あっ…そう言うんじゃ無いんです、この店って急に一見さんが増えたり減ったりするのが珍しくて、変な事聞いちゃってすみません」
と言葉を濁した、岩井田は「気付かれていたか、それとも内通か、しかしこの娘、2階の客の事をどう見てるんだ」と考えながら
「何だか私の人相が良く無かったですかね、この店に2階もあっただなんて知りませんでした」
と答えた、実の所2階がある事も、娘がいる事も、最近犯人グループが来ていない事も分っていたが、彼らはいずれまたこの店に来ると言う確信にも似た思いがあった、特捜班ではそれらを見込んで足しげくその店に通う事にしていたが、核心を突いて刑事と言われると偽造で作った銀行員の名刺を出すしか無い、しかし名刺を出すのにもタイミングがある、即座に名刺を出してしまってはもうその後が無い、店の者に銀行員のお得意様と言うレッテルを貼られてしまい逆に店内で目立ってしまう、タイミングは少し話して仕事の話題になった時にしかるべき流れで名刺を出すか、出さずに済むなら出さない方が良い。岩井田は更に話しかけた。
「お嬢さんはここの店主の娘さんですか?」
カウンター席に座っているのは岩井田1人、カウンターの中には店主と娘の一枝だけだ、今度は普通のボリュームで一枝が答えた
「ええ娘です、あ、お父さん、熱燗お待ちです」
無口な店主は新潟出身らしく、新潟の酒がカウンター内に並んでいる、岩井田は少し気を使い
「急がなくても良いですよ、娘さんはまだ学生さん?」
と父親の方に聞いた、実に自然な流れだ、岩井田は今日はこの調子で会話をして早めに切り上げるとしよう等と考えていた。
「学校は行って無いんです、私京都で舞妓をやっていて、今はお暇をもらって少し帰省してるだけなんです」
父親とは何か折り合いの付かなかった所があったのか、顔を上げて返答しようとした店主を遮り、一枝は自ら現在の職業を説明した。
昔の舞妓は16歳位で奉公に入り、日本舞踊や三味線を3年程練習した後、初めてお客の前に立つ事が出来たと聞くが、彼女が今20歳位だとすると高校卒業を待たずに舞妓の道に入ったのか…この時代珍しい生き方を選んだ若者だな等と考えている内に少し酔いが回って来た、これ以上の下手なおしゃべりは禁物だと感じ岩井田は店を出る事にした、店主に出してもらった熱燗を呑み終えると席を立ち上がった。すると一枝は岩井田の上着を取って来て右手の袖口をサラリと開ける仕草を見せた、さすが京都でやっているだけある、嫌みが無く上品だ、岩井田は何も言わず袖に腕を通し上着を着終わってから「ありがとう」と一礼してその場を去ろうとした。
外まで見送りに来た一枝は、父親が見ていない事を確認してから一枚の名刺を出し。
「京都に来はったらよろしゅうおたのもうしやす」
と流暢な京都弁で言い悪戯っぽくニコリと笑った、花名刺と言う物で細長く奇麗な和紙で出来ており、普通の名刺とはまた違う風情のある物だ、名刺には「祇園 かずえ」と書いていて本当にこんな情報だけで辿り着けるのかと思う様な物だったが、花名刺は初めてもらう物だったので、自分も偽の銀行員名刺を出そうとしたが、京都でもしこの銀行に勤めている人間が彼女に名刺を渡したら厄介だと思い「すみません、会社に名刺を置いて来てしまって」と言い名刺を渡さない様にした。すると一枝が一言。
「わてらは遊びがばれん様にするのも仕事おすえ。あと2階のお得意様は来週の火曜にまた来はる言うてましたえ、わてはもう明日には京都に帰ります、お後はよろしゅうたのみます」
と言い今度は軽く笑みを見せた、岩井田は「なるほど、黒革の手帳とはよく言った物だ、その辺の警察官より洞察力に優れている、俺は明確な身分を明かしていないのが救いだが…2階の客を張ってる事まで分ったのか」と身震いした。その後誘拐犯グループは小料理屋から別々で出て来る所を抑え全員逮捕となったが、岩井田はその店に出入りする事は無かった。
それから1年程後、京都府の舞鶴と言う日本海側の港街で、京都府警と連動して大規模な麻薬や盗難車の密輸取引現場に潜入して、大陸サイドと本土サイド両方の売人組織を上げると言う作戦を実施した、作戦は1年掛かりで作り上げられ大成功を納めた。
そして岩井田にはもう1つ目的があった、京都に行ったからには再度あの一枝と言う小料理屋の娘に会ってみたい、何せ逮捕に繫がる情報を洞察力だけで提供して来たのだ、岩井田は舞妓を呼べる店を予約し、以前もらって大事に取っておいた花名刺で一枝を使命した、すると意外な答えが返って来た
「かずえなんですが、今はもう舞妓やおへんのです、今は芸妓なんで、それと…えろうすんまへん、今ちょっとお暇もろとるんです」
と言われた。
芸妓になったと言う事は結婚でもしたか、休みを取っているとなると出産でも控えているのかも知れない、なる程そうすると会う事は出来無いなと考えた。
◇
結局一枝にはそれ以降一度も会う事無く現在に至ると言うが岩井田と一枝の接点だった。