VI
「あ、伊吹さんおかえり。ってあれ?圭は——」
凛と談笑していた涼は振り向きながらそう尋ねた。
しかし、華の真剣な顔つきを目の当たりにして眉をひそめる。
「なんかあったのか?」
「いや…柳君がどっか行っちゃって…。」
「どっか、というのはどういう事なのかしら?」
「凛、なにもそんな責めるような言い方をしなくても…。」
「あ、ごめんなさい。別にそういうつもりではないのよ。」
凛は慌てて手を振って否定する。
涼はそんな彼女を見て少し表情を緩めた。
「実は——」
「へー。あの圭がそんなことを。」
「意外ね。柳君ならもっと適当にやると思っていたわ。」
「ちょっと!2人とも反応おかしくない!?」
華は冷たいようにも感じられる反応の2人に声を荒らげた。
しかし、2人は全く心配するようなそぶりは見せず、安心したように微笑んだ。
「そんな心配しなくても大丈夫だよ。あいつがそんなことをするってことは相当なんかあったんだろうし、俺らは待てばいいだけだろうね。」
「でも、先輩達に酷いことを言ったのは事実だよ?」
「じゃあ逆に聞くけれど、この件で伊吹さんは圭のことを嫌いになったのか?いつもヘラヘラしてるような奴がいきなりキツいことを言い出したりしたら、困惑する気持ちもわからないでもないけれどね。」
「そ、そんなことは…。」
「圭の言ったことは言葉は選ぶべきだったかもしれないけど、聞いた限りでは正論だろ?噛み砕いてしっかり自分を省みるまでには時間がかかるものなんだよ。」
「………。私は篝君が何を言ってるかわからないよ…。」
「涼。今度はあなたが伊吹さんを責めているように聞こえるわよ。」
凛が呆れたような顔で助け舟を出した。
涼は先ほどの凛をまるで模倣するかのように慌てて手を振って否定した。
「まぁ、あれこれ考えても仕方ないから今はとりあえず待ちましょう。」
「うん…。そうだね。」
華は腑に落ちない表情ではあったが、凛に諭され渋々頷くしかなかった。
静かな廊下に楓の足音だけが響く。
楓は一歩踏み出すごとにため息をつきそうになってしまうくらい憂鬱な気分になっていた。
明後日が文化祭だというのにこんな直前に揉め事を起こしてしまうなんて運がないのか、と思わずにはいられなかったのだ。
生徒会室の鍵を開け、扉を開けると長机には圭が突っ伏して寝ていた。
鍵がかかっていたはずなのにこの後輩はどうやって生徒会室の中に侵入したのかと不思議に思ったが、本人に聞かずにはわからなかった。
楓はため息を1つこぼし、茶髪の少年の方を揺する。
「ちょっと、柳君。ここは貴方の寝室じゃないのよ。」
「…ん。…あぁ、会長ですか。お早うございます。」
圭は間抜け面で大きなあくびをする。
なんともリラックスした圭の態度に楓は空いた口が塞がらなかった。
「柳君、ここ鍵がかかっていたはずなんだけど、どうやって入ったの?」
「ああ、それなら——」
圭は窓の方を指で示した。
確かに窓は開いていたが、それは楓が生徒会室を出て行くときも開けていたはずだった。
楓の表情を見てまだわかっていないことを悟った圭は立ち上がり、窓の方へと近づいて言った。
「ここのベランダって隣の家庭科室と繋がってるんですよ。知りませんでした?」
「ベランダなんて使わないから知らなかったよ。」
「そうでしたか。それなら、驚かせてしまってすみません。でも、先輩は窓から外を見ないんですか?」
「見ないよ。見たとしても何を感じるわけでもないから。ほら、そこどいてよ。」
楓は不機嫌そうに鼻を鳴らし、持っていたファイルを机に置く。
そしてこの部屋の中で異様に1つだけ豪華な、明らかに会長のものとわかる椅子に腰掛けた。
楓が一息つくと、圭は楓に向かって頭を下げた。
「出過ぎた真似をしてしまってすみませんでした。あと、失礼なことをたくさん言ってしまったのもすみません。頭に血が上っていたので抑えが効きませんでした。」
楓はそれを興味なさそうな目で見つめ、何も答えずに机の中からミニチョコレートを取り出して食べる。
「あの、会長?」
「私、嘘吐かれるの嫌いなんだけど。」
「は、はぁ。そうですか。」
「柳君さ、今嘘ついたでしょ。」
「はぁ…。」
圭はとぼけているのか、気の無い返事を返す。
すると楓の目尻はキッとつり上がった。
「演技だってわかっているの。柳君が言ったこと、よくよく聞いてみると全て正論でしょ。まぁ言い方はよくはないけどね。」
「………。」
「私は感謝こそすれ、柳君を責めたりはしない。だから謝られるのはむしろ不快だな。君が謝るのならあの場に居た人全員に対して、じゃないとね。」
「それは俺に暗に謝れと命令しているんですか?」
圭は反抗的な光を瞳に宿す。
しかし、楓からはさっきまで漂わせていた緊迫した雰囲気は感じ取れなかった。
「ううん。別に強制はしないよ。でも、言い方が悪かったということだけは認めないとね。」
「それはわかっていますよ。」
「でも、あれも私を怒らせるための演技なんでしょ?私が怒って柳君をみんなの前でやっつける。そして私はヒーローになる。古典的だけどあの時は効果的だったかもね。」
「そこまでわかっていたんですか。流石ですね。」
圭は恥ずかしそうに頬をかきながら視線泳がせる。
楓は大人びた考えを持つ後輩のそんな子供っぽい振る舞いを優しい目で見ていた。
「それで、今度は俺から質問してもいいですか?」
「うん。なに?」
圭は勝手に生徒会室備え付けのポットを使ってコーヒーを淹れながら尋ねる。
「なんで怒らなかったんですか?俺なら誰かにあんな風に言われたら怒りますけど。」
「なんで?うーん…組織のリーダーは怒っちゃいけないでしょ?」
「じゃあ怒りという感情はあの時0%だったということですか?」
「そうかな。…そうだね。」
楓は一瞬考えるような顔をしたが、すぐに明るく笑う。
しかし対照的に圭の表情は固く、口を真一文字に結んだまま全く笑っていなかった。
「どうしたの?」
「いえ、少し思うところがありまして。これ、下手くそですけどコーヒーです。」
「あ、ありがと。インスタントに上手も下手もないでしょ。変なこと言うのね。」
目の前に置かれたコーヒーを一口飲んで楓はまた笑みをこぼした。
普通ならこんな暑い夏に温かいコーヒーなど飲みたくないと思うものだが、楓は文句ひとつ言わずに笑顔を見せた。
「じゃあ質問を変えますね。会長は泣いたことってありますか?」
「それはもちろんあるに決まってるよ。産まれた時に泣いてないのはむしろ大変なことだよ?」
「そういう意味ではありません。何か苦痛や悲しみ、もしくは感動によって泣いたことはありますか?」
「それはないわけないじゃない。変なの。」
楓は笑い飛ばすように言う。
圭はそれを横目で見ながらコーヒーをまた一口飲んで口を開いた。
「それはいつですか?覚えている限りでいいので教えてくれませんか?」
圭の問いかけは至って簡単なものだった。
しかし楓の表情は笑顔のまま固まってしまっていた。
「覚えてない…かな。うん。覚えてないよ。」
「やっぱりですか。じゃあ、んー…どうしようかな。明日、俺と一緒に出掛けませんか?」
「今の話とどこが繋がってるのかわからないけど…そもそも明日始業式だよ?」
「でも午前で終わるじゃないですか。」
「私、そういうのいつも断ってて…。」
「だからなんですか?」
圭は覗き込むように楓を見る。
楓は押しに弱いと見ての行動だった。
その成果か楓は慌てるように顔を背けた。
「何を勘違いしてるのかは知りませんが、別に2人きりとは言ってないですよ。俺は。」
「は?はぁ!?」
楓は背けていた顔を勢いよく戻し、素知らぬ顔でコーヒーを飲む圭に向かって歯嚙みをした。
圭はニヤリと笑うとカップを小さなシンクに持って行き洗い始める。
「女性服等の買い物をしたいんですが、生憎そういうのがあまりわからないというのもあって、少し手伝って欲しいだけです。」
「デートに私を付き合わせようっていうの?なかなか面白い頭をしているね。」
「違いますよ。相手と俺の関係は…今は兄妹?かな?」
「なぜ疑問形なのかは聞かないけれど、付き合う義理がないわ。」
楓は論外、とでも言いたげに首を振り、近づいてきた圭に空になったカップを渡した。
「そうですか?俺は会長のことを少なからず助けたと思うんですけれど、勘違いですかね?」
「そ、それは…。」
圭のニヤニヤとした表情に、楓は焦ったように腕組みをしてうんうん唸り始める。
圭がカップを洗い終え、布巾で2つの綺麗に拭いて棚に戻す頃になってようやく楓は結論を出した。
「もう!わかった!付き合う、付き合うよ。で、どこに何時に行けばいいの?」
「それは後で連絡しますよ。あ、これ俺のメアドです。空メールでも送っておいてください。」
圭は軽薄な笑みを浮かべながら懐から丁寧に折りたたまれた紙切れを取り出し、机の上に置いた。
「準備がいいのね。私が送らなかったらどうするの?」
「その時はその時ですし、仕方ないことですよ。」
「そう。とりあえずわかった。送っておくね。」
「よろしくお願いします。あと、コーヒーご馳走様でした。」
圭は手を後手に振ってそのまま生徒会室を出て行った。
「コーヒーご馳走様って…ご馳走様なのはこっちなのに…。」
楓はだらしなく背もたれにもたれかかり、椅子をくるりと回して窓の方を向く。
もらった紙を広げ、ボールペンで書かれた文字を読もうとしたが、太陽の光によって紙が透けてしまい、うまく読み取ることができなかった。
今回はここまでとなります。ギリギリでの投稿になりましたが、何とかこのペースを守っていければ、と思っております。




