強い心
(私、まだ貴族なの?)
自分で自分に問うけれど、答えは出ない。
(貴族では無くなったのではないの?)
貴族の籍からは抜けたと思っていたのに。平民の籍への登録がまだだから「仮平民」なのだと思っていた。
(ここに自分の居場所を見つけたと思っていたのに。また周りを気にしながら暮らさなくちゃいけないの?)
気分が重い。
甘いなぁ、私。そうだよねぇ。世の中こんな簡単に渡れるわけ無いじゃん。こんな簡単に自分の居場所が見つかるわけが無い。
自分を自分で笑っちゃうよ。
「ふっ、ふふふっ……はぁ。」
肩で息をする。
「おっ、おい。大丈夫か?」
ディックさんが下を向いている私の肩を揺すっていた。
ディックさんの深い葡萄酒色の瞳が揺れている。私の姿が映っている。揺れているのは私だ。
あぁ、まだここには私を心配してくれる人が居る。出会ってまだ数時間しか経っていないよね。鋭い目をしているから怖い人って言うわけじゃないんだ。
…でも、組織の人間である以上いつ権力の側につくか分からない。
そう思ったらディックさんの側には居られなくなった。
肩にあった手を押し止め、私は立ち上がり、フラフラと応接室を後にする。
何か呼ばれた気がする。まぁ、いいや。難しいことは考えたくない。
◇◇◇
気が付いたらニコニコしながら食堂の調理場で大量の野菜を洗っていた。
水と泥で手がガサガサだ。
(こんな手をしている私のどこが貴族よ。)
自嘲の言葉がもれる。
貴族で無いことが不満で言っているわけでは無い。
大量の野菜を洗い終わり、調理場へと運ぶ。
運び終わったことを包丁を研いでいるボビルスさんに報告して、次の指示を仰ぐ。
手を休め、ジーッとボビルスさんが私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か? 良かった。正気に戻ったみたいだな。」
「はい。色々すみません。さっき気が付いたら野菜洗っていました。本当に色々とご迷惑かけてごめんなさい。それであのう、自分勝手で申し訳ないんですけど、王都へ行かなければならない用が出来てしまったので仕事を休ませてください。…明日の朝までは食堂の仕事をさせてください。絶対戻って来るので、そうしたらまた仕事をさせてください。」
「ああ、分かっている。悪いがディック副長から応接室での事は大まかに聞いた。お前は正気でない時と同じ事を言うんだな。出来るだけ手伝ってくれればいい。俺はお前への態度を変える気はない。だから…言いたくなった時は言ってくれ。」
元貴族、違う。今も貴族だってことも聞いたのかな。
ううん、違う。聞いていないみたい。
ボビルスさんの態度を変えないでいてくれること、つまり私を1人の人間として見てくれているようで嬉しく思う。
「あとでエメリーさんに慰めてもらいます。エメリーさんを貸してくださいね。」
正気で無くなるとは私も思わなかった。
家族に何を言われても、使用人に何を囁かれても聞き流すことが出来ていたのに。
アーシャマリアは強い娘って自分でも思っていたのに。
参った。
平民になるってことに、私はこんなにもこだわっていたんだ。
それから、いつものように皿を洗い、並べ、言われたものを運んだ。いつもより一生懸命だったかも知れない。
夕食の時間になって警備隊の皆が食堂へ来れば、夕食を皿に盛り付けた。積極的に声をかけて、他愛の無い会話をした。
ニコニコ笑い、「今日は色々大変だったわ。」と昼間のことは笑い話にした。
食堂の看板娘アーシャであろうとした。
ただディックさんを見ると顔が引きつるのを自覚してしまった。
ディックさん自体は私に何も悪いことはしていないのに。
自覚無しにディックさんへ視線がいっていることに気づく度に平静を装った。
「おい、ちょっとこっち来い。」
もう殆ど食堂に人が居なくなり、私がテーブルを拭いていた時、声がかかった。
「悪い。アーシャ借りるぞ。」
顔を上げればディックさんが目の前にいて、大声で叫ぶと、戸惑う私の手首をつかんで食堂の外へ連れ出した。
足がもつれても抵抗も出来ず、そのままヨロヨロと引っ張られて大きな木の下にいた。
月明かりで顔の表情が分かるくらい明るい。
…あぁ、今日は満月なんだ。夜空を見るのも久しぶりだなぁ。夜の前庭もきれいだなぁ。
「お前なんて眼をしているんだ。感情を隠しすぎだ。無理しすぎると壊れるぞ。お前みたいな理性と感情のバランスが崩れているやつの事は戦場でよく見た事がある。ほら、吐き出せ。特別に胸を貸してやる。泣け。」
他から見えないように木陰で、ディックさんは私を深緑色のマントで包むとそっと抱きしめた。
…嫌だな。
「離してください。」
私は両手でディックさんの身体をギューッと押した。
「1人で泣けます。いつも1人で泣いて乗り越えて来ました。それに今晩はエメリーさんに慰めてもらう許可をもらっているんです。だからディックさんの慰めはいりません。」
「え。」
ディックさんが眼を丸くして呆けている隙にマントから抜け出す。
あー、ビックリした。
ディックさんにこんなことさせてしまうくらい、私ダメダメだったんだ。しっかりしろ私。
「ご心配おかけして申し訳ありませんでした。おやすみなさい。」
顔を夜空に向ける。星がキラキラしている。うん、まだ星のきらめきを美しいと感じる心が私には残っている。
何となく貴族の礼をとり、私は食堂の片付けに駆け戻った。
残されたディックさんは頬をポリポリとかき、所在なさげに立っていた。
「貴族のお嬢さんのくせに、なんて強いんだ。参ったな。俺の出番は必要なかったってか。」
フッとディックさんは人の悪い笑みを浮かべ、自室へと戻っていった。
私が隙を見せて泣いていれば、2人の関係は何か変わったかもしれない。しかし、それは無かった。だから2人の関係は単なる同じ職場の知り合いのままだった。
それでもディックさんにとって私は「気になる娘」へと変化したかも知れない。私の知らない間に。




