26 雪の結晶・上
窓の外にはちらちらと雪が降り始めている。もうすぐ今日の分の仕事が片付くというのに、タイミングが悪い。
書類に重石代わりに乗せていたリーディングストーンを退かし、次の仕事を引き寄せたところで、そういえば、と手の中のガラスの塊を見詰める。
不純物の少ない綺麗なガラスは高級品で、この小さな塊一つが窓ガラス一枚よりも遥かに値が貼るものなのだが、ふと良い事を思いついてしまった。
「エリザ様、どうかされましたか?」
「あ……いいえ。何でもありません、マレシャン夫人」
声をかけられ、何でもない風を装ってリーディングストーンを袖の中に落とす。運良く気付かれずに済んだ。
相変わらず、仕事中の女官代わりはマレシャン夫人の役割だった。
まだまだ勉強不足の身としては、すぐに声の掛けられるところに夫人が居るのは何かと心強い事でもある。テレジア伯爵に認められる程有能な教師である彼女は幅広い分野に精通している才女で、頭の回転も早いためか、何かを尋ねた時のレスポンスが兎に角速くて正確なのだ。
夫人はぼうっとリーディングストーンを見つめていた私に首を傾げていたが、それほど気にした風もなく、手元の書類仕事に戻る。どうやら二人のエリーゼが書いた作文を見ているらしい。マレシャン夫人は黄金丘の館に住む子供の教育を一手に引き受けている。
私も自分の仕事に視線を戻した。
数枚残っていた領軍からの報告書や申請書に目を通し、必要な部分を簡略化して抜き出した書類を作成してサインを書き込む。続いてそれに併せて発注書等を書き起こして、これにもサインをする。
後はこれを一纏めにしてテレジア伯爵へと提出するだけだ。不備が無ければ、このまま通る。
関係書類毎に穴を開けて紐を通し、やっと今日の机仕事は終わりだ。ぐっと伸びをするが、元々姿勢を保ったまま仕事をしている上、柔軟な子供の身体である私の背が音を立てる筈も無く。
「終わりましたか?」
マレシャン夫人がゆったりとドレスの裾を引いて傍へとやって来た。彼女は今まで、ユグフェナ地方のチュニックとダルマティカの衣装に袖を通した事は無い。いつも詰め襟の、地味な一色ドレス姿をしている。
「はい、恙無く。夫人の方は如何ですか?」
「私も終わりましたよ」
上品に笑みを返すマレシャン夫人だったが、ふと表情を曇らせて視線を手元の紙束へと落とした。二人のエリーゼのどちらか、或いは両方の成績が悪かったのだろうか。
「あの……お任せした従者見習いの様子はどうですか?夫人の教えをきちんと学んでおりますか?」
「え?ええ……大変よろしいですよ」
そんな事を私から聞かれるとは思っていなかったのか、唐突な質問にマレシャン夫人は戸惑いながらも頷く。しかし、夫人は気不味そうに言葉を続けた。
「ただ、最近はあまり身が入らないようで……。懸命に取り組んでは居るのですが、どうにも他の事に気を取られているようですわ」
「他の事……」
つい先日相対した時の、ラトカの顔を思い出す。呆れた顔、心配気な顔、辛そうな顔、怒気を孕んだ暗い顔……僅か一刻にも満たない間に、驚く程くるくると表情が変わっていった。
私の心が情けない程に弱り込んでいるように、ラトカも私のした仕打ちに心を痛めているのだろうか。
「エリーゼ子爵令嬢も、近頃は発作が多くなって、不安になっていらっしゃるようです。従者見習いのエリーゼさんは、それが心配なのやもしれません」
「……聞き及んでおります」
これも耳に痛い話だ。ラトカには見舞いに行くと言ったのに、結局私はその前に館から逃げ出している。
マレシャン夫人は私とラトカの間の諍いなど知らない筈なのに、物言いたげに私の目を見た。だが結局何の一言も漏らさずに、視線を下げてしまう。
きっと何とかしろとい言いたいのだろう。そこまででなくても、何があったのかと聞きたかったのかもしれない。
だが、彼女はそこまで踏み込まない。
マレシャン夫人は女家庭教師だ。多数居る家人の中で、家庭教師だけは、勤めが終われば別の家に仕事を求めて移って行く。
だから彼女は、黄金丘の館の住人の心の問題にまでは、踏み込もうとしない。それは住人が増えるにつれて、一層顕著になった。
それ故に今の私には、館の中では彼女の傍が最も安心できるというのは、実に皮肉なものに思える。
「あ、おかえりエリザさま!」
「ただいま」
領軍の訓練に参加しない日は一度新入領民の簡易村に戻って昼食を食べたり、滞在している天幕に振り分けられている仕事をしたりしてから、再度館へ引き返して武芸の稽古となる。
「エリザさま、お仕事で疲れてない?」
「雪降り始めてたけど、寒くない?」
「少し濡れてるよ!ストーブの方おいでよ」
天幕に入ると、途端に中にいた数人の子供が寄って来た。口々に話し掛けてくれながら、その中の誰かが私の手を取って中央のストーブへと引いていった。
「ああ、大丈夫だよ。今日はラスィウォクに乗せて来て貰ったんだ」
「ラスィウォクって、エリザさまの友達の鱗翼狼だよね」
ラスィウォク、と名前を出した途端、子供達がさざめき立つ。ラスィウォクの事は視察の時に話をした限りだったと思うが、覚えていたらしい。
「そう。アークシアでは、狼竜と呼ぶんだけれど」
「まだ居る?」
「居るよ。天幕の外で待っている」
どうやら子供達は狼竜に興味津々なようで、私が天幕の入り口を指差すとわあっと歓声を上げた。
「見たい!」
「言うと思った。外は寒いから、呼んでもいいかな」
「うん!」
好奇心に輝く瞳に、微笑ましさを覚えて胸のあたりがほんのりと暖かくなる。その真っ直ぐさが眩しくて、そしてとても羨ましい。
それは、私には持ち得ない心の在り方だった。歪な育ち方をしたラトカにも、或いは生まれついて病弱だったエリーゼにも、遠く在りて輝く。
そんな彼等の姿にクラウディアが重なった。彼女は貴族としてはありえない程、真っ直ぐな性根をしている少女だ。
そうしてふと、気が付いた。クラウディアがこの領にやって来たばかりの頃、私は彼女の事が少し苦手だった。彼女の振る舞いに一々疲れを感じる程に。
思い返すと、それは羨ましさの裏返しだったのかもしれない。私は決してこの子供達のようには成れず、クラウディアのようにも成れない。
館から出てきて良かったと、心から思う。
私は彼等が羨ましい。だが、私は彼等とは違い、彼等のようには絶対になる事は出来ないのだと、今なら素直に認める事が出来た。
そう思える自分自身を知る事こそが、きっと私の歪さを解決するために必要な事なのだ。