25 家出先は隣
「エリザさまー、そっちの馬にもご飯やってー!」
「分かった、やっておく」
自分と同じような大きさの子供達が、飼い葉を桶に入れてあちこちを走り回っている。
私もその子供の一人として、腕に抱えた桶の中に大量に飼い葉を追加すると、示された馬の一団の方へ向かった。
桶は重いし、馬は好き勝手に動き回るので急がなければどの馬が餌を食べてないか分からなくなる。冬だというのに汗だくになりながらの作業だ。しかし不思議とそれが、心地良いというか、楽しいというか。
「御館様、大丈夫か?」
「ああ、勿論」
様子を見に来たテオにはきっと、こっくり頷く私が酷く子供っぽく見えたに違い無い。彼は苦笑を浮かべると、それ以上は何も言わずに立ち去っていった。
ラトカ、テレジア伯爵、オルテンシオ夫人と立て続けに精神的な揺さぶりを受けたことで、私の内側はまるで嵐の過ぎた後のように滅茶苦茶になってしまった。
これ以上誰かに何かを言われるのは、情けない事だが、耐え切れない。特にオルテンシオ夫人のように、純粋に子供として扱おうとされると、自分の中の何かが決定的に崩れてしまう気がして、只々恐怖が募る。
黄金丘の館の住民全てが今や恐ろしく感じられた。不信に続き恐怖症とは、精神的に不安定だという事が嫌でも分かる。自分でも呆れるくらい、自分の内面の未熟さが浮き彫りにされている。
だから──そこから逃げ出す事にした。俗に言えば、家出でである。
仕事を放り出す事はどうしても出来ない。そのため、家出先は隣の丘の上で冬の間だけ暮らす事になった新入領民の天幕だ。
朝には仕事をしに館へと戻るが、重要度や優先度の高い書類から一気に捌いて、昼には出る。随分と中途半端な家出になったものだ。
元々冬の間は、午後の時間を仕事ではなく武術の稽古や領軍の訓練に当てるつもりでいたため、仕事量には特に問題は無い。兵舎から戻る先が自分の部屋ではなく、隣の丘の天幕になるだけだ。
勿論これは、唯の逃避だ。自分でも十分に解っている。
それでも環境が変われば、附随して変化するものもある。オルテンシオ夫人やラトカといった、今は顔を合わせづらい人に遭遇する確率は減る。未だささくれだった感情も少しは落ち着くだろう。
感情や私の年齢が原因である以上時間が過ぎれば、解決される問題もある筈だ。
「エリザさまー、そっち終わった?」
なんとか任された馬の全てに餌をやり終えると、待っていたのか私と同い年の少女が後ろから声を掛けてきた。
シル族で寝起きをさせて貰うようになって早半月。私は視察の時に泊まらせて貰った、子供ばかりの天幕に滞在している。
「ああ、出来たよ」
「じゃあ今日はこれで終わり。ご飯食べに行こう」
少女はにっこりと笑うと私の手を握って、自分達の天幕まで戻る。ここへ来たばかりの頃に、同じような天幕ばかりで迷子になってしまい、それからは必ず誰かが移動の際に私の手を引くという習慣が出来たらしかった。
「はい、これ布巾と着替え。汗が残ると風邪引いちゃうから、ちゃんと拭くんだよ?」
「分かっているよ。大丈夫」
天幕の子供達の中での私の扱いは基本的に『新入り』だ。シル族の生活様式に不慣れな私に、子供達は面白がりながら世話を焼いてくれている。
年上の子はともかく、年下の子までもがまるで私の兄や姉のように振る舞うのが実に興味深い。普段世話される側の者が世話をする側に回るのは、その逆も同じであるように、なかなか新鮮な気分なのだろう。
その屈託の無さに、ほっとする自分がいる。
渡された気替えはシル族の民族衣装だった。普段着ているチュニックとダルマティカもユグフェナ地方独特の衣装であり、あまり仕立てに大きな違いは無いが、刺してある刺繍の柄はユグフェナのものより鮮やかな色味で、植物よりも鳥や馬等の動物モチーフが多い。
丁寧に全身を拭ってからそれを着込んだ。少女に言われるまでもなく、汗をきちんと拭う事は兵舎にいた三ヶ月の間に骨の髄まで叩き込まれている。
フェルト地の上着は普段の衣装と着心地が大きく異なるが、それにもそろそろ慣れてきていた。
気替えが終わったのが分かったのか、少女が衝立から顔を覗かせる。器用に上着の前を留めながら靴を履いて、私の傍まで寄って来た。
「ねぇねぇ、エリザさまは今日はこれから何するの?」
「今日は……領軍の訓練がある」
日が中天を過ぎたので、そろそろギュンターがこの簡易村の入り口まで迎えに来る筈だ。
「そっか。長のお仕事だね。がんばってね」
少女の激励に頷いて、天幕から這い出す。途端に顔面に痛みを感じるほどの空気の冷たさに襲われた。身体が火照っているからか寒くは無いが、兎に角冷たい。
痛みの酷い鼻先を温めるべく口許に手を当てて白い息を吐いていると、続いて天幕から這い出した少女が私の首元にフェルトの長布をしっかり巻き付けた。マフラーだろうか。アークシアには無いものだ。
「ちゃんと首巻き、巻くんだよ。長が風邪引くと大変なんだから」
「ああ、す……ごめん」
すまない、と普段のように言い掛けて、それでは子供に伝わらない事を思い出して言い直した。謝罪の言葉は彼等にとって、ごめんなさい以外には無い。最初に『すまない』と言った時には首を傾げられた。
「ごめんってするのは本当に風邪引いちゃってからね。こういう時は、ありがとうって言うんだよ」
少女が随分得意気にそう言うので、少しばかり笑ってしまった。いつの間に私はそんな簡単な事も忘れてしまっていたのだろう?彼女の言う通り、マフラーを巻いて貰って謝罪をするのは、確かにおかしな事だ。
「ありがとう」
「ん、いい子だね」
へにゃりと笑った少女が、私の頭を撫ぜる。私はついに可笑しくなって、釣られたように笑みを浮かべた。