表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
97/262

24 悲嘆に暮れどもその手は取れず

「エリザ様、夕食の時刻となりましたよ」


 声を掛けられて驚いた。

 午後からずっと部屋に篭って書類仕事を片付けていたが、気付かないうちに熱中し過ぎていたようだ。顔を上げると背と首に鈍い感覚がした。随分長いことわき目も振らずに仕事をしていたらしい。日中も薄暗い冬である為にずっと灯したままだった蝋燭を見れば、随分短くなってしまっていた。


「あぁ──ありがとうございます、オルテンシオ夫人」


 扉の前に立って私を呼んだのは乳母(ナース)のオルテンシオ夫人だった。部屋から出て来ない私を呼びに来たらしい。外はもう完全に暗くなっているようで、彼女の手にはランプが握られていた。ランプに灯った明かりが夫人の瞳に反射して、ゆらゆらと揺れる。


「すぐに行きます」


 インクが跳ねたり零れたりしないようにそっと羽ペンをペン立てに戻してから立ち上がった。

 オルテンシオ夫人がするりと入室して、上着代わりのローブを着させてくれる。部屋の中は暖炉や、暖炉で温めた空気を送り込む暖房機能によって温度を保っているが、廊下はその限りではないのだ。


「……エリザ様」


 ローブの襟元の紐を結び留め終えた所で、ふとオルテンシオ夫人が口を開く。ゆったりと微笑んで、彼女は優しい眼差しで私の目を覗き込んだ。


「何でしょうか?」


「あなた様は、とても立派です。領主として在ろうと心掛け、そしてきちんとお勤めを果たされております」


 夫人は私の手を取り、両の掌で包み込む。瞠目して見返す私の視線にやはり微笑んで返して、言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡いだ。


「ですが、その前にエリザ様は、一人の子供でもあるのです。立場が大人と変わらないからといって、ご自身を大人として扱うのは、間違っていますよ」


 それはまさしく、子供にさとすように。


「……出来ません」


 苦々しい思いで呟く。オルテンシオ夫人の言葉は春の野風のように温かく、柔らかい。私の乾いて罅割れた心に、するりと入り込んで来る。

 だからこそ、苦しい。恐ろしい。身の竦む思いに、合わせられた視線を外してしまいたいとさえ感じる。


 暖炉の薪がパチンと一際高い音を立てて爆ぜた。

 しかし、オルテンシオ夫人は全くそれが耳に入らなかったように、私から目を逸らさない。


「いいえ。あなた様はご自分を子供として認め、扱わなければなりません」


 随分はっきりと言い切るものだ。夫人の眼光は未だ優しい筈なのに、力強い。それが、怖い。


「エリザ様。確かに私は、テレジア伯爵からこの仕事を頂いた際、あなた様を大人として扱う様に、と指示を受けました。ですが、あなた様は子供です。エリザ様がずっと苦しい思いを続けているのは、誰もエリザ様の事を子供として認めないからなのだと、私は確信しております」


「……止めて下さい」


 ギリ、と奥歯が鳴る。

 聞いてはいけないと、これ以上この女に何も言わせてはならないと、頭の奥でけたたましく叫び声を上げる存在がある。

 息が詰まる。柔らかな真綿で首を締められているような気分だ。


「この屋敷には、不幸な事に誰も子供を育てた方がいらっしゃらない。だから、どうすればエリザ様が楽になれるのか、皆分からないのだわ。エリザ様を子供として扱ってくれた人も、もう居なくなってしまった」


 オルテンシオ夫人の口調が、親しみを込めて砕けたものになった。彼女は私の手を包んでいた両手で、今度は私の肩を包み込む。


 駄目だ。これ以上は本当に。私の頭の奥で、絶叫が迸る。


 ここから逃げ出してしまいたい。そう思うのに、一歩も動けなかった。根が生えたように棒立ちになった私を、彼女の腕がそっと包み込んだ。壊れ物を扱うような手付きだった。


「あなた様は、まだ、人に甘えても良い筈なのです」


 耳元に囁かれたその言葉が、とろりとした蜜のように私の脳に甘美な痺れをも齎した。

 夫人から温めたミルクのような、ふんわりと甘く優しい香りがする。人肌の暖かさに触れる私の肌が、その温度を恋しがって溶けたがる。


 目の前にある夫人の肩に、身体から力を抜いて寄り掛かってしまえたら。


 これは暴力だ、と思った。抗えない温もりがそこにある。腕の中と外には全く違う世界が広がっていた。


 瞼の裏側が熱を持つ。喉の奥が酷く痛い──熱く、苦しい。


「……エリザ様?泣いているのですか?」


 ぼろ、と。下瞼の縁に溜まったぬるい水が決壊して零れると同時に、あやすようにオルテンシオ夫人の手が私の背を撫で擦る。


「──止めて下さい」


 それでも、無様にしゃくり上げる事だけは、出来なかった。


「離して下さい、オルテンシオ夫人」


 言うと同時に夫人の肩を両手で押した。彼女の目が、僅かに驚き、次いで憐れみに彩られたのが分かった。

 心臓がばくばくと音を立てている。今にも破裂するかと思えるほどに激しく。


 袖元で目元を覆って、よろける様に後ろに下がった。オルテンシオ夫人の腕は私を引き止めはしない。机へと背が軽くぶつかるまで下がって、漸く私は奇妙な程の安堵を感じた。


「……食堂へは先に行ってください。すぐに私も参りますので」


 オルテンシオ夫人の吐く、緩やかな溜息の音が聞こえる。


「仰せの通りに致します。けれど、私の言ったことを、決して忘れずにいて下さい」


 その一言を最後に、足音ともに気配が遠ざかる。身体から力が抜けていって、ずるりとその場に座り込んだ。

 両手が震える。

 あの甘美な誘惑とは別の恐怖に戦慄いているのだ。


 どうして私は、オルテンシア夫人の言葉を拒否してしまったのだろう。


 相反する感情にむせび泣きそうになるのを、必死で噛み殺していた。それでも頭の奥では、これで良かったのだと自分に言い聞かせる私がいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ