21 裁断の言葉
ラスィウォクにはブロンドの髪の男、ヴァロンの尋問に立ち会って貰うつもりだった。あの男は大型の獣に慣れていない。ラスィウォクの存在があるだけで恐怖し、酷く狼狽えるのだ。
しかし、ラスィウォクはラトカの部屋の前から動こうとしない。自分よりも大きな獣はどんなに押したところでびくともしなかった。
この野郎、などと心中で毒づく。前世の記憶が色濃く思い出されてからというもの、そういった粗野な言葉が衝動的に浮かび上がる事も多くなっている。
毒づいた相手である狼竜はごろりと廊下に寝そべったまま、蛇そっくりの長い尾をぱたん、ぱたんと左右に振っていた。
連れて行くのは諦めるしかないか。ラスィウォクの存在が必須だった訳でもない。寒さに負けて命乞いをするほど弱り切った精神の男だ。牢に戻すと言えば幾らでも揺さぶれる筈と考え、ラスィウォクから手を放して踵を返す。
……その瞬間、つんのめって顔面を廊下に打ち付ける事になった。
鼻に強烈な痛みと熱を感じる。床が絨毯敷きだったおかげで怪我こそしてないが、痛いものは痛い。それよりも、だ。背中から酷い圧迫感がする。ラスィウォクが前足か何かを乗せているのだ。呼吸音が近いので、恐らくは頭だろう。私のクロークの裾を咥えて転ばせ、剰え身動きが取れないように押さえつけるとは、なんという奴だ。
鼻を押さえて顔を上げると、鼻から温い液体が伝うのが感じられた。鼻血である。
「…………ラスィウォク」
地の這うような声が出たが、背中の重みは消えようとしない。藻掻こうとも無駄である事は分かっていたので、大人しく袖で鼻の下を押さえた。服はそれなりに高価だが、絨毯はもっと高いのだ。
そこへ、階段を上がって来る小さな人影があった。本を脇に抱えたラトカである。なんというタイミングで来るのか。
「え……、はあ?」
ラトカは何よりも先に、困惑した様子を見せた。
無理もない。私の普段の行いを鑑みるに、廊下に寝転がって鼻血を押さえながら背に狼竜の頭を乗せられている私の姿などなかなか想像できない光景だろう。
「……えっと、何してるんだ?」
「何かしてるように見えるか?」
憮然として答えると、慌てて駆け寄ってきたラトカが私に乗っかるラスィウォクの頭をぼんぼんと叩いた。そうしてようやく、のっそりと背の上からあっさりとその重みが消える。
この野郎。もう一度私は心中でそうラスィウォクを罵った。最初からこれがこいつの目的だったのだ。
「あー……とりあえず、鼻血を止めようか」
何とも言えない表情を浮かべて、ラトカは自室の扉を開けた。
寝台と机、箪笥、それと紙束と本が収まった棚。ここ一年は入らずにいたラトカの部屋は、棚が増えた以外は以前と変わらずがらんとしている。私が家具も給与も与えていないので当たり前だ。しかし、寝台に腰掛けながら部屋を見回してみると、部屋が広いだけ寒々しく思えて、ソファーくらいは置いてやるべきだろうかとも思う。
「はい、こっちの布で鼻押さえて」
ラトカは口をへの字に曲げたまま、私の面倒を見ていた。ダルマティカの袖で鼻血を押さえているのを見るや否や棚の隅にある救急箱から清潔な木綿布の端切れを取り出してそれを渡してくれ、窓を少し開けて部屋の空気を入れ替える。
暫く大人しく座っていれば、自然と鼻血は止まった。打ちつけた顔面の痛みも引いて来ている。しかし、今そのまま出ていけばおそらくラスィウォクは全く同じことをもう一度するであろう事は分かっている。
少しの間迷ったが、
「エリーゼ様はどうした?」
「今日は少し発作があって、疲れたのか今は眠っているよ。最近は発作が出ることが多くなった。この一年、折角熱を出さなくなっていたのに」
エリーゼが寝ている間はラトカの仕事は無くなる。その時は本を読んで過ごしているらしく、部屋へと戻ってきたのはそれまで読んでいた本を読了したため、戻して新しいものと変えるためだったらしい。
ラトカの言うとおり、ここへ来たばかりの頃は体力の無さから熱を出して寝込む事が多かったエリーゼだが、カルディア領へ来てからは気候が良いのか徐々に動けるようになっていた。だからか、発作が多くなったという報告には眉を寄せてしまう。
「医師は今の所様子を見ているみたいだけど、エリーゼ様本人は病気が酷くなったのではと考えているみたいだ」
「上手く励ましてやってくれ。私も出来る限り見舞おう」
エリーゼの発作は本人の精神状態にも大きく影響される。気が弱くなると発作が出る事が多くなるのだ。
「そうしてくれ。俺が来てからはずっと訪ねて来てくれないと零していた」
「……そうか」
顔を合わせるのを避けていたのはラトカであってエリーゼではないが、エリーゼ付きにしたラトカを避けていたためにエリーゼの部屋ごと避けていたのは事実だった。忙しさにかまけて見舞いに行く時間が取れないのだと自分に言い訳をしてはいたが、こうして実際に彼女の言葉を伝えられると酷い罪悪感だ。何も言えずに頷くと、ラトカは目を眇めて私を見つめた。
「……俺ではなく私と言え、と言わないんだな」
奇妙に冷めた声音だった。はっとしてラトカを見つめ返す。彼の表情は消え失せて、凍り付いているように見えた。
「もう俺は必要なくなったのか?」
吐き捨てるようにそう言って、ぎこちなく自嘲のように笑う。
「……お前が俺を殺さなかった事に、恩着せがましい事を考えてない事は何となくわかってたよ。だからずっと考えていた。わざわざ俺に教育を施して、傍に置く理由は何だろうって。お前は俺を随分と好きにさせていたよな。甘やかしていた、っていうのか?」
「違う」
言い切りながらも、私は迷っていた。
ラトカが言わんとしている事が分かる。私はそれに薄々感づいていながらも、この一年、自分自身でそれを封殺してきた。
「多分、違わないよ。お前は俺にカミルを重ねて見てるんだ」
喉の奥が凍り付く。やめろと言いたいのに、声が出ない。
「俺を、あいつの代わりにしていたんだ」
頭が熱い。様々な感情が手を付けられない程に暴れまわっていた。目の前がちかちかと明滅する。
知られていた。自分でも見たくなかった心の内を、よりによって本人に。
「──ぁ、」
引き攣った喉から言葉にもならない声が洩れる。
それと同時に、部屋の中に扉を叩く音が響いた。