16 老人の話
シャナク神殿──王宮のすぐ真横に立つ白亜の神殿は、貴族街から少し離れた所にあるミソルア大神殿よりも優美で潔癖な印象を感じさせる。大神殿には平民もやって来るが、貴族街の中心に立つこの神殿の主な利用者は貴族達、或いは王族だ。
「早いな。少し迷うかと思ったが」
神殿の最奥にある、普段は外部の者には開けないという小さな聖堂。そこで待っていたファリス神官は、やはり老若男女のどれとも分からぬような声で私達を迎え入れる。
神殿の内部は、今までに見たどんな建物よりも複雑な構造をしていた。迷わなかったのは、驚くべき事に、クラウディアの先導によるものであった。
「……野性的な勘の持ち主がいまして」
背後でクラウディアが微かに笑った気配がした。褒めている訳ではないのだが。
「それは重畳。さて、掛けて寛いでくれ。今日は老人の長話を聞いて貰いたくて呼んだのだ」
ファリス神官は感情の読めないような妖しい微笑みを浮かべて、椅子を指し示した。侍女役であるクラウディアが進み出て椅子を引き、私はそこに腰を下ろす。
ラトカとクラウディアが部屋の端に置かれたソファに腰を下ろした所で、ようやくファリスはその不気味な笑みをふつりと掻き消した。
──疲れているのだろうか?表情を無くすと、不思議な事にファリスがテレジア伯爵と同い年と言われても違和感がないくらいに老け込んで見える。いや、先程のクラウディアの話が本当ならば、それが実年齢の筈だ。
「其方と見えるのは、三度目か」
「ええ、そうですね」
取り留めなく尋ねられた事に頷くと、ファリスは私の瞳をじっとのぞき込んだ。何だ、と思わず身を引いてしまう。今日の彼女は、あからさまに不気味に見える。
ファリスは暫く目を細めて、何を見ようとしているのか、黙って私の瞳の奥を探っているようだった。
「……同化が早いな。殆ど見えない。加速しているのか」
そうして唐突に、ファリスはぼそりとそう呟く。
「──え?」
全く何の事か分からなくて聞き返すが、ファリスは今の呟きを無かった事にしたようだった。前に乗り出すようにしていた身体をゆっくりと戻し、今度は初めてあった時のような泰然とした笑みを浮かべて、真っ直ぐに私を見据えてくる。
そうすると、先程見えたような気がした老いは何処かへと消えてしまっていた。年齢不詳の性別不明という、理不尽ささえ感じさせる浮世離れした存在へ。
「ジークムントの体調はどうだろう?最近になって無茶の皺寄せが急に来たと聞いたが」
何事も無かったかのように話を始めたファリスに、はぁ……と気の抜けた声が喉から零れる。
「まだ良くなってはいないようですね。早く元気を取り戻してくれれば良いのですが」
「どうしたところで歳には勝てぬさ、人間である限りはな。それにあ奴は今尚無理を押している。あれでは良くなる筈もあるまいよ」
ファリスは喉の奥をクッと鳴らして、皮肉げに唇を歪めさせた。この神官がテレジア伯爵の元妻だか婚約者だという話はその真偽はわからないが、今でも腐れ縁だけはしっかりと繋がっているらしい。
「仕事は溜まる一方ですからね。私としてはきっちり治して、早く完全復帰して頂きたいところですが」
「さて、それもどうなるかな。……我々はいつ死んでも可笑しくない歳までもう生きた」
どこかしみじみとした言い方だった。我々、という言葉に、ふっと肺から息が抜けていく。
きっとこの神官は、死を覚悟しているのだろう。如何に外見が若く見えようとも、自分が年老いている事を自覚し、受け入れている──死と共に。
「疲れましたか?」
「いいや。ただ、満足はとうにしている。わたしはな。あ奴にはまだ、気掛かりな事が多過ぎるようではあるが」
「今はまだ、未練無く突然永眠されても困りますがね」
「であろうな」
笑えるような事も無く、心揺さぶられる事も無く、ただただしんみりとした話だ、と思う。死について話をしているのに、不思議と暗く重い雰囲気にならないのは、この神官が話の相手だからだろうか。
「……神は、必ず私の魂に安息の眠りを与えて下さるであろう。それは楽しみでもある」
ファリスの瞳が、私の目を再び射抜いた。
その言葉は急速に私の耳から脳へと染み入って、ひとつの感情も揺さぶること無く、心の中央へと落ちる。
「もし……もしもの話ですが。死後に魂の安息が与えられず、現世に送り返されたとしたら、それはファリス殿にとってはどのような事なのでしょう?」
気がつくとぽろり、とそんな問いかけが口から零れていた。
ファリスは一瞬、きょとんと子供のようにあどけない表情で私を見返し、それから力の抜ける様に微笑む。慈愛の篭った笑みであり、また憐憫の篭った笑みでもあった。まるで聖母シャナクのような美しい微笑みに、そんな顔も出来るのか、と内心驚く。
「ミソルア神には、魂に再び命を吹き込む力は無いのだよ。故にそれは幸でも不幸でも無く、宿命でもない、ただの偶然。己の力で再び一生を切り拓き、選び取り、足掻くより他に無い。命ある限り」
老人の言葉は、重い。しかし、やはりすとんと素直に心へと落ちてくる。
コクリと頷くと、ファリスはその聖母のような笑みを一変させた。同じように微笑んでいる筈が、余りの変貌に一瞬ギョッとする。後ろの方で今の今まで黙っていたラトカの、うへっという小さな呻き声が微かに聞こえた。
「さて、そろそろ本題に入るとしよう。何も今日其方を呼び付けたのは、信心を深めさせる為でも、ましてジークムントの近況を聞く為でもない」
「そうでしょうとも」
お互いに暇な身でもないだろう。それなりの用があって招かれ、それなりの用があって応じたのだ。
「どんな組織といえど、人が集まれば意見が割れ、派閥が出来る。巨大になればなる程それは顕著なものへとなっていく。人は三人集まるだけで派閥が生まれると言われるからな」
……貴族院の話だろうか。王太子の問題は、今や小さな対立の種となった。不思議とテレジア伯爵そっくりな口調で、講義のような事を喋りだしたファリスに、こちらも聴く姿勢を変える。
「神殿も同じ事よ」
しかし、ファリスの話の内容は、予想を遥かに超えて衝撃的な内容で、思わず愕然とする嵌めになる。