15 宮司ファリス
社交シーズンも終わりに近づき、そろそろ街屋敷に管理人を雇って領地に戻る季節がやって来る。
領地へ戻れば収穫の時期が始まる。今年は難民が持ち込んだかぼちゃがあり、また二年前に買い入れた鶏の産卵が安定してきたので、収穫祭の料理が一気に華やかになるに違いない。
父の時代を生き残った村の女達のお蔭で、卵の伝統的な調理法を失わずに済んでいた。本当に良かったと思う。他の肉類や魚類の調理法も、完全に失われる前に供給を可能にしたいものだ。
……逆に考えるとそれは、私があのまま家族を生かしておけば、そういった数少ない伝統さえも失われていたという事だ。
家族を殺した事について、私は正しい事をしたと考えるようにしている。しかし、あの状況に疲れ果てたその衝動で毒芹を鍋に落としたのではないかと問われれば、否定は出来ない。
だからこそ、このようにその正当性をいちいち確認する必要がある。そうやって自己肯定を行わないと精神的にきついのだ。心を病んで領主の座を投げ出すような事は、私には許されていない。
「──ぁ、おい、聞いてるのか?」
肩を掴まれてはっと顔を上げると、いつの間にやらラトカに顔を覗き込まれていた。感情的な思考に浸かり過ぎて注意散漫になっていたか、と一つ瞬きをして気持ちを入れ替える。
「……具合でも悪いのか?」
「いや、考え事をしていたらぼうっとしてしまっていたようだ」
目の前の子供の気遣わしげな表情に、思わず少し笑ってしまう。それを見咎めたのか、ラトカは僅かに眉根を寄せた。
「しっかりしろよ。それで暗殺でもされたら、俺はどうなる」
「王都滞在中に暗殺される程の事はまだしてない筈だ」
「ふぅん……って、する予定があるのかよ!」
自分から各方に喧嘩を吹っ掛けるつもりは無いが、領地を立て直して本格的に国境防衛線の一角に数えられるようになれば、自然とそういう危険性も出てくるだろう。
何しろ国家の防衛費を少し動かしただけで敵対的な行動に出る者達がいるくらいなのだ。
それにしても、とラトカを改めて眺める。
「……何だ?」
「私が死ぬと困るのか、と思ってな。一年前には、殺してやると叫んでいた気がしたが」
「おっ……前なぁ!意地が悪いにも程があるだろ!」
呆れたような声を出して、ラトカは一気にぶすくれた。そのストレートな感情表現に、何処かホッとする。そしてまた、その子供から殺気を感じない事に安堵した。
「悪い、冗談にしては過ぎた事を言った」
「全くだな。……あぁ、そうだ。本題なんだが、神殿から手紙が届いた」
「手紙?」
ラトカが差し出した封筒を受け取り、くるりと返すと、そこには見覚えの無い封蝋がされている。私の知る神殿の紋章に、別の印が絡む璽──Fを模した紋章に思い浮かぶのは今の所一人だけ、あのファリス神官しかいない。
もう一度手紙をひっくり返してみると、表側にははっきりとエリザ・カルディア殿へ、と書かれた宛名が目に入る。どうやら、届け間違いではなさそうだ。
「ラトカ。ペーパーナイフを取ってくれ」
それほど親しい訳でもない間柄の神官から手紙が届く。一体何用なのかと椅子の背凭れに身体を投げ出して、手の中のそれを睥睨した。
王宮のすぐ横に立つ豪奢な白亜の神殿を見上げて、隣で疲労に肩を落としたラトカの背を叩いた。
「行くぞ」
「……痛いんだけど?」
横目で睨む視線を黙殺すると、数歩後ろに控える侍女姿のクラウディアと、今回は護衛として連れてこられたギュンターがくつくつと喉の奥を鳴らして笑うのが聞こえてくる。
ラトカとクラウディア、最近外へ出る時は必ず連れている二人だが、何故なのか今回はわざわざ名指しで招待されていた。
「どうしてこの三人なんだか……」
眩しさすら感じる大理石の神殿に足を踏み込んで、独りごちる。特にラトカの事などあの神官には教えてすらいない。何処から何時の間に知り及んだのか、テレジア伯爵に親しげだった事から察するにそこからだろうか。
「宮司ファリス殿は神の目を持つと言われていてな」
ぼそりと呟いたそれを耳聡く聞いたのか、私などより余程王都事情に詳しいクラウディアが、得体の知れないあの神官について喋り始める。
「母方はメルリアート家の出身で、ファリス殿自身も公爵家のご令嬢であったらしいぞ。一説によればテレジア伯爵の元婚約者だか、奥方だったという話だ」
「……は?」
元公爵令嬢で、しかもあの若々しさでテレジア伯爵の元婚約者?という事は年齢は伯爵と十も変わらない筈だ。あの若々しさで、七十歳過ぎ……?
「へぇ、何だか変な経歴だな。修道会に入るような身分ではないだろうに」
「神の目を持つと謳われる程、現世離れした方のようだからな。もしかすると本当に神通力を持っていて教会へ入ったのやもしれぬな」
ファリス神官を直接見た事があるのはどうやら私だけのようで、ラトカとクラウディアはこれから会う神官の年齢には何の衝撃も受けないらしい。
ラトカはともかく、クラウディアも知らないのであれば、あの神官は実はあまり表に出てくるような存在ではないのかもしれない。……まあ、貴族の社交界に顔を出す修道士や神官はごく一部の事なので、大部分の聖職者がそうなのだが。
──それにしても、神の目か。
六歳の誕生祝の日の典礼で、かの神官が指し示した功罪の天秤の皿の事が思い浮かぶ。
誰にも知られていなかった筈の私の罪があっさりと暴かれてそこにあった。あの場に居た残りの二人、テレジア伯爵とカミルはおそらくその意味を知らなかった筈だ。
死の間際でさえカミルは私が彼の父に罪を擦り付けた事を知らなかった素振りを見せた。
伯爵に関しては、もしかすると全て知っているかもしれないとも思う。よく考えれば、天秤の皿に載せられたあの羊皮紙等は彼以外に用意できる者は無い。これまで何も言われた事は無いが、少なくともあの典礼の内容からある程度は推測しているだろう。
ここまで来いと指定された聖堂まで、後は無言で歩く。何を言われるのかと緊張はしていても、弱みを握られている事に関しては、不思議と去年のような恐怖は感じていなかった。