09 怒りはかくも冷たいものか
ネザの村でようやっと身体を少しばかり休ませた。意識としてはまだ起きていたいのだが、如何せんまだまだ幼い体は無茶はできるが無理は効かない。夜も更けると耐え難い睡魔に襲われる。村長を兼ねる名主の家に一室借りて横たわった瞬間からもう記憶は無かった。その代わり、目が覚めるのも早い。夜明けと共に勝手に体が起きようとする。
荷を漁って服を着替え、昨晩の内に置いてもらった水桶で布を絞って顔と首を拭った。安い木綿の布を使って歯も磨く。
支度を終えて部屋を出ると、戸の前で座っていたクラウディアがおはよう、と声を掛けてきた。
「少しは休めたかな、エルリシア殿」
「エリザです、クラウディア殿。おはようございます。体は大丈夫です、妙な疲れはありません」
「それはよかった、エリザ殿」
警護のために夜通し起きて過ごしたクラウディアの声には、普段と比べてほんの少し覇気が無かった。王都を出てから、護衛役である彼女は碌な休息を取れていない。
この騒ぎが収まったら早々に休ませてやらないといけないだろう。──そもそも、彼女一人に私の護衛を任せるのは酷なのだ。館に篭っていた頃ならばまだしも、今はこうして動き回る事の方が多いのだから。
階下へ降りると名主の夫人が朝食を用意していた。夫人は私を見るなり、きゃっと小さく悲鳴を上げてその場に平伏そうとする。
「やめなさい」
心苦しい物を見る前にと、素早くそれを制止した。三十以上も年上の女性に額ずかれるのは出来れば見たくない。夫人をきちんと立ち上がらせて一宿一飯の礼を述べたが、彼女は哀れにもその間ずっと震えていた。
逃げる様に夫人が去って行った後のダイニング・キッチンで態々用意してくれた朝食を貰う。毒や異物が入っていない、普通の黒麦パンと卵のスープ、それと腸詰めだった。腸詰めは保存食の筈で、牧畜産業が未だに取り戻せていないカルディア領では高級品の扱いだが、気を遣わせてしまったようだ。
今はそれが嬉しくも、苦しくも思える。
何にせよ、善意には善意と誠意で返さねばならないだろう。
「随分と──落ち着いているのだな」
「はい?」
「いや、エナ殿……じゃないな、エリザ殿は、私の目から見ても分かるほど、良く領民に心を砕いていたのでな」
ああ、と珍しく途中で名前の言い間違いに気づいたクラウディアの言葉に頷いて返した。つまり、彼女はもっと私が焦るなり、憤るなりをしていると予想していたらしい。
確かにそうなってもおかしくはない。それは自分でも自覚している事だった。
彼女の予想よりも私が冷静なのは、シル族の戦士達が全員動いてくれているからだ。領軍とシル族は、必ず盗賊団を捕えて私の前に引き摺り出す。それを確信している──言い換えれば、彼らを信頼している。そうしなければならない。
「ギュンターとテオは、私の期待に応えてくれるでしょうから」
私の答えに、クラウディアは一つ瞬きをして、それからにっこりと笑った。
名主の家から出た先ではパウロと、昨晩から私の護衛についている領軍兵三人が待っていた。
「おはようございます、お館様」
「おはよう。何か報告は?」
「ラスィウォクが痕跡を見つけたようですよ。現在追跡中だそうです」
はきはきとした声でパウロが答える。去年領軍入りしたばかりの見習い兵士だが、こういう所はユグフェナ城砦から戻った兵士として大きく成長したと感じる。
成長といえば、今や馬より大きくなってしまったラスィウォクに、未だ身丈の小さい私はその背に満足に跨がる事は出来なくなった。賢いあの狼竜は、それを承知してその他の能力を役立てようとしてくれている。
……意識を報告に戻してパウロに「それから?」と続きを促す。彼はほんの少しためらいを見せた後、口を開いた。
「それと……道中に、行方不明の女性のと思われる髪が」
女性の髪が、目に見えるように道に落ちていたというのか。そこから想像出来る、女達の境遇に酷く不愉快な気分になる。盗賊団を追跡する道中に彼女達の痕跡があったのであれば、行方不明者は奴らに誘拐されたという事だ。
目の前が赤く染まったような気がした。
昨晩はまだ疑惑だった事がこうして確定すると、はっきりとした怒りが湧いてくるのを感じた。苛立ちや憤りではなく、内腑が煮え滾るようなその感情を、怒りと表す以外を私は知らない。
「エリザ殿、目が怖いのだが」
クラウディアに言われて、私の視線にパウロが脅えている事に気が付いた。そんなに怖い顔をしていただろうか。七歳の子供がどんなに凄もうと、それほど迫力が出るとは思えないのだが。
仕方なく目尻の辺りを揉むと、パウロは少々ほっとしたような表情を見せた。
「わかった、引き続き追跡を急げと伝えてくれ」
「はいっ!」
元気よく返事を返すパウロを見送って、私はクラウディアに向き直った。
ベルトに下げたポーチからメモ束と、布に包んだ細い木炭を取り出して、簡潔に指示を書く。
「クラウディア殿、一時私の護衛の任を解きます。セラ川の館に居るエリーゼを連れて黄金丘の館へ送ってやって欲しいのです。エリーゼには、これを」
書き終えたものを引き千切って渡すと、クラウディアは文字に視線を滑らし、唇をへの字に曲げた。そのラトカ宛のメモには、地下牢の奥から鞭を出してここへ運ぶよう、滞在中の御令嬢の方のエリーゼにはそれを見られぬよう、とその二つだけを書いた。人の血を吸った鞭など、療養目的で滞在している御令嬢に見せるようなものではない。
「父上の再来と言われぬよう、使い方は考えねばならぬぞ」
「承知しています」
「ならばいいが」
クラウディアは小さく頷くと、残る護衛の三人に端的な指示を出して、厩舎へと踵を返した。
視界は未だ赤く煮え滾ったままだ。
それでも頭は、不思議と氷のように冷えていた。沸騰する湯を抱えたまま氷の中に居るような気さえする。
だから私は、この場でじっと待つのだ。私の狼竜が、民が、兵が、私の目の前に『それ』を引き摺り出すその瞬間を。