57 名も無い墓石
一月の眠りは確実にエリザの筋力と体力を削いでいた。思うように動かない、重い身体に辟易する。
こんな時に限って、手を貸して欲しいと思う相手はもうこの世のどこにも居ない。
ラスィウォクの横腹を支えにして、ずるずると這うように進む。
そうして彼女がやって来たのは、中庭の先にある小さな池の畔だった。
水辺には家族を殺した毒芹の緑が陽光を浴びて、エリザの視界の中で存在を主張していた。夏には色鮮やかな小花が池を囲っていたが、秋も半ばを過ぎた今では地味な茶と緑ばかりが写る。
池の周囲は人の手が最低限にしか入れられていない。それに構う事なく、エリザは畔に沿って池を回り込んだ。
現在は単なる貯水池として扱われているこの池も、最初は庭として造られたものであるという。
今の黄金丘の館が建つ前の事だというから、随分と昔の話ではあるが。
故に池の周りには、嘗てはその風景で人の心を和ませた痕跡が残っている。館の中庭から見て池の右の畔には、水面に影が落ちるように木が一本生えていて、その下は石敷きになっているのだ。木の根が突き出て既に平坦さを失ったそこに、エリザはぺたりと座り込んだ。
水がチャプチャプと僅かに揺れる音と、風が草葉を揺らす音、それから自分の鼓動の音だけが聞こえる。
肌を撫でる空気は彼女が眠っている間に冷たさを帯びるようになっていたが、傍らに寝そべるラスィウォクの体温が肌寒さを忘れさせてくれていた。
ふっと息をついて、エリザはある一所に視線を留めた。
視線の先には、木の根元に寄りかかるようにして、彼女の背丈の半分程も無い大きさの、磨かれた石がある。
それは墓石だった。
名も刻まれていないし、骨がその下に埋められている訳でもないが、その石は確かに墓石だった。
エリザはついと指先をその墓石に伸ばすと、表面の土埃を払った。
ラスィウォクが館へとやって来て、カミルと過ごすようになってからというもの、ここへ来たのは初めての事になる。
墓の主の事を忘れた時こそ無かったが、足が遠のいていた事は認めねばならないだろうとエリザは心中思った。
「──久しぶり。ずっと来なくて、ごめんなさい」
エリザは小さく呟くように、墓の主へと話し掛ける。無論、返事などない。墓の主は死者なのだから、答えがある筈も無いのだ。
「……大事な人を、死なせてしまったよ。私が愚かだったばかりに」
それでもエリザは、ぽつり、ぽつりと独り言のように声を落とす。
石の表面を撫でる指先が黒く汚れても、気にも止めずにそれを続けた。
「カミル、というんだ。貴女以来の、大切な人だった……」
ざぁ、と秋風が吹き抜けていく。音はそこら中にあるが、エリザはこれを静寂であると頭の片隅で考えた。
「人を信じればいつか命を奪われると思っていたのに、人を信じなければ生きていけないのだと漸く思い知ったよ。……少なくとも、こんな思いをまた味わう位ならば死んだ方がマシだと思えた」
そこまで言うと、エリザは一度沈黙した。
陽光の眩しさから逃れるように瞼を降ろす。
「……お陰で、夢うつつにいろいろと忘れていた事も思い出したりはしたけれどね。あんな記憶があったって、一体何になるというのだろう……」
力無く言葉が口から漏れる。
抑揚の無いのは相変わらずだが、常よりどこか空虚な声だという事は、誰に言われずとも自覚している。
今はまだ、エリザの心は死者へ思いを馳せていた。
エリザを文字通り揺さぶり起こしてくれたあの子供には大変悪いとは思うが、未だ彼女の中は、寝ていた時と変わらずがらんどうのままだ。
カミルを失って、空いてしまった大穴から感情や意志が抜け落ちていくかのようだった。
「……随分、寝こけてしまっていた。子供に揺り起こされて漸く目が覚めたよ。エリーゼ、だなんて。自分と同じ名前を恨まれている相手につけるなんて、とカミルには言われてしまった。その為に更に一人エリーゼという名の娘を探して……。何をやってるんだろうな、私は。そんな事よりももっと他にやるべき事があっただろうに……」
零す声が呻くようなものになると、エリザは再び口を噤んだ。
思い出すのは、自分を目覚めさせたあの子供の泣き顔だった。
誰に慰められても、励まされても、エリザの靄がかった世界は晴れる事ないままだった。
その微睡みは或いは、逃避であったのかもしれない。少なくとも眠っていた時には苦しみも、罪の意識も、何も感じる事は無かった。まやかしではあれど、一種の安らぎであった事は確かだ。
そこからエリザを引き摺り出したのがあの子供の怒りと不安とやるせなさによる感情の爆発だったというのは、現実を見させるという点で理に適ってはいた。
年齢の割りに頭の良い子供だと思っていたけれど、情緒面は逆に未発達なようだ。
もう少し扱い方を改めようかと、ぼんやりと考えてはいるが具体的な案は思い浮かばない。
前世では子供と縁遠い一生を送ったし、今生では自分以外に子供の居ない生活を送ってきた。子供の情緒がどうすれば真っ当に発達するかなど、そもそも本人の情緒面も歪なものとなっている以上、エリザに分かる訳も無いのだ。
エリザは墓石から目を離し、何とはなしに空を見上げた。
青く抜ける空の色は、カミルが生きていた頃とも、墓の主が生きていた頃とも、何一つ変わらない。
「……乙女ゲームの世界に生まれて、もう少し気楽に生きていけるかと思えば。一体どうしてこうなった」
呟きながら、ぼすりと身体をラスィウォクの上に投げ出した。
エリザの誰にも聞かせられない独り言を最初から最後まで聞いていた狼竜は、そうしてやっと、くぉん、と鳴いたのだった。