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同じ名を持つもの・12

 ラトカは目の前に横たわる少女を静かに見下ろしていた。

 長い黒髪が白いシーツの上に散らばっている。夕陽のように赤いのに氷のように冷たい瞳は、今は見えない。滑らかな白皙の頬は、血の気を失って青褪めている。

 ユグフェナから戻ってもう一月が経ったというのに、彼女はずっと微睡みの淵から戻って来ないらしい。


 謹慎が解け、ユグフェナから戻って来た者達がどうなったかを知ったラトカは、再び夜半を待ってエリザの部屋へと忍び込んだ。

 ラトカが話を聞いた兵士曰くエリザはずっと眠ったような状態が続いているという。身体に怪我はないようだが、側仕えだったカミルという男をユグフェナで失い、心の方に傷を負ったのかもしれない。


 エリザが一日の大半を眠って過ごしているらしいという事は、日中にベルワイエが端的に教えてくれた。

 その時に兵士の話は結局されなかったので、おそらくベルワイエはもう自分を兵士に関わらせる気がないのだろうと言う事を確信した。


 エリザは時々目を覚ますこともあるという。目を開け、体を起こしたり、身動きを取るらしい。ただし、こちらの声に反応もしないし、歩いたりもしない。何かを喋ったりする事もない。痛みに対しても身じろぐ事さえしないようだ。

 生きているのに、まるで死体かなにかみたいだとラトカは思った。感情も現さず、言葉も話さず、呼びかけに答えもせず。

 もしかすると、身体ではなく心が死んでしまったのではないか。


 そうして今、ラトカは随分暫くぶりにエリザの姿を見下ろしている。


 ラトカは銀のナイフを持つ右手に力を込めた。

 エリザの傍には、今は誰もいない。

 そして、エリザ自身も抵抗は出来ない。


 脳は未だ痺れたような感覚を残していた。それが奇妙な高揚感となっているような気もする。


 兵舎で過ごし、また館へ来て過ごし、その間に沢山の事を知った。

 貴族という存在の全てが悪なのではないという事。

 エリザという幼い少女が、自分の父の罪も、自らの罪も、きちんと受け止めているという事。

 エリザは自分を生かそうとしているという事。


 彼女の生活、覚悟、思いを知って尚、ラトカの右手にナイフが握られているのには理由がある。


 イゴル達領軍の兵士が死んだのは、元はと言えばエリザのせいだ。

 ユグフェナに出兵する必要があったのは、隣国の難民を受け入れたからだ。難民の受け入れに積極的にエリザが動いていたのだと、カルヴァンが言っていたではないか。

 昔に聞いた話の貴族のように傲慢でなくても、領民を酷く扱おうとせずとも、結果としてエリザは民を死なせた。

 そう思う事も許されないならば、死んでしまった人に対して募る寂寞(せきばく)の思いを、彼女以外の誰に向ければ良いのだろう。


 ラトカはゆっくりと憎しみを昂ぶらせ、それに合わせて逆手にナイフを握り締めた手を振り上げた。


 彼女を殺せば、今度こそ自分も死ぬだろう。

 庇ってくれる人はもう誰一人として居なくなる。

 死ぬのは怖い。だが、エリザに向かって殺せと喚いた言葉は虚勢のつもりで吐いたわけでもない。

 息が震えた。心臓の脈打つ音が徐々に早鐘を打ち始める。

 ラトカの胸の内では、今や様々な感情と記憶が凄まじい勢いで飛び交っていた。


 振り上げたナイフを持つ手まで震えてくる。

 迷いながらここへ来て、凶器を掲げた今も尚迷っているのだ。


 母の顔や、シリル村での事、イゴル達を思い浮かべればすぐにドス黒い感情が膨れ上がるのに、次の瞬間にはここで学んだ事の数々がそれを抑え込んでしまう。


「……ッ!」


 震える右手を、同じく震える左手で包み込んだ。


 迷っていても関係ない。この手を思い切りよく、何度か振り下ろしてしまえばいいのだ。

 そうするだけで、朝までにはこの子は死ぬだろう。


 ──だが、いつまで経ってもラトカはナイフを振り下ろせない。

 両の手はただただ震えるだけだ。

 息をすることすら忘れて、さりとてナイフを降ろすことも出来ず、眠るエリザを涙で滲む視界に収め続けた。

 この状態が永劫に続くのかとさえ、ラトカは思った。


 そうしてやっと息苦しさに、呼吸する事を思い出す。

 いうことをきかない喉に、息の仕方をどうにか思い出して漸く新鮮な空気を肺へと取り込んだ。


 するとその時、ふとエリーゼの穏やかな微笑が思い浮かんだ。脳裏に突然閃いたそれに、光を幻視して目が眩む。

 途端、ラトカの全身は糸の切れた人形のように床へと力無く崩れ落ちた。


 カラン、と軽い音を立ててナイフが床に転がる。

 鼓膜に痛い程、ドッドッドッ……という心臓の音が響いている。悲しくも苦しくもないのに、何故か涙が滂沱(ぼうだ)と流れ落ちては弾けた。


 殺意と繋がる憎しみを保つ事は、ラトカには最早不可能だった。


「くそっ……くそぉおお……っ!!」


 悔しさに握り締めた拳を床へ振り下ろす事も出来ず、ラトカはエリザに手を伸ばした。

 質の良い滑らかな布で作られた寝間着の襟首を加減もせずに掴んで、揺さぶる。


「起きろよっこの……畜生っ!お前、まだ村の人達に何もしてない癖にっ…………!!」


 ボタボタとラトカの涙がエリザの頬へと落ちて濡らした。

 何の表情も浮かんでいない、作り物のような顔は、何処までも無機質にそれを弾いていた。


「起きろ、起きろよぉっ!お前が寝てたら、俺ッ、お前のこと殴る事すら出来ないじゃんかよぉっ……!!」


 感情のままに怒鳴りつける事も、力一杯に頭部を揺する事も、ラトカには出来ない。

 何一つ満足に出来ないまま、ラトカはただ駄々をこねるように喚くしか無かった。


 その無力さと空虚さに、エリザを揺する気力さえ削がれる。

 力無く寝台の端に突っ伏したラトカは、声の限りに泣いてしまいたいのを必死に耐えた。


 先の見えない不安も、一つも整理のつかないまま増えてく感情も、心を許せるものもなく孤独が続くストレスも、何もかもが限界となって、エリザへの怒りと悔しさを履け口として一気に噴出した。


 ラトカはまだ、十年も生きていないような幼い子供だった。

 それも心を病んだ母親に家の中に匿われて、歪な育ち方をした、情緒の未発達な子供だった。

 エリザなどよりも、ずっとずっと子供だった。


 鬱屈した精神は溜め込んだものの吐き出し方を知らず、かといってそれを力の限りに何かにぶつける事すら、ラトカは知らなかった。

 だから、赤ん坊のように疲れて眠ってしまうまで、泣くより他に無かったのだ。




 エリザは薄ぼんやりと靄がかった意識の中で、次第に弱くなっていく嗚咽に、そっと手を伸ばした。

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