同じ名を持つもの・11
一月後の夜半、ラトカは部屋の扉をそっと押し開けた。
火の消された廊下は暗く、光源となるものは分厚い窓ガラスから差し込む歪んだ星明かりだけだ。
自分の呼吸音が煩く聞こえるほど、辺りはしんと静まり返っている。
ラトカはそっと部屋を出ると、息を殺して慎重にその暗い廊下を進み始めた。
館の者達は既に寝静まっている。
こうして部屋を抜け出すのは二回目の事だ。
兵士達が帰還したその夜に、ラトカは兵舎へ向かうべく部屋を出た。しかし、その時は運悪くベルワイエに見つかり、そのまま謹慎を命じられて自室に監禁されてしまったのだ。
結局、何の情報も入らず、エリーゼにも会えないまま、今に至る。
今回は誰かに見つかることの無いよう、使用人達さえも寝静まった後の時刻まで待った。
館の中から脱出するのを優先して、一階に降りてすぐにある窓から外へと転がり出る。
夏もすっかり終わり、陽の沈んだ後は空気が冷えている。肌寒さに腕を擦りながらもラトカは兵舎への道を急いだ。
兵舎は館と違って夜でも明かりが灯されている。朝まで起きている当番があるということはラトカも知っていた。南側の扉に、その当番の兵士が一人立っているという事も、兵舎にいた頃に聞いている。
話を聞くには丁度いいだろうと、ラトカはそちらへ向かった。
南側の扉の前では、やはり扉横の蝋燭にぼんやりと照らされて、兵士が立っている。
その兵士が見知った顔の者だったので、ラトカはほっと胸を撫で下ろした。一月の謹慎中に、難民の村の開拓に向かった兵士が戻ってきているかもしれず、ラトカのことをよく知らない兵が此処に立っている可能性があったのだ。
幸い今夜の見張り番はラトカが訓練で参加していた班の班員だった。パウロやカルヴァン殆親しくしていた訳でもないが、口汚く揶揄されるような間柄でもない。
ラトカは相手を警戒させまいとゆっくりと夜の闇から踏み出した。
「誰だ!」
兵士は右手に携えた剣をすぐに構えた。蝋燭の火の明かりにぼんやりと浮かび上がった小さな影に兵士は驚いて、それがラトカだと分かると数瞬迷ってから剣を降ろす。
「ラトカ……?」
「うん、そうだよ。俺だよ」
「お前、今まで何処に居たんだ?……ってそれより、こんな時間にどうして……」
困惑を隠さない兵士に、ラトカは久々にほっとするような気持ちになった。
館で話の出来る相手は今やマレシャン夫人とベルワイエのみとなっていて、二人共ラトカには如何なる感情も見せようとしないのだ。
久々に見た感情豊かな表情に、ラトカは肩の力を抜いた。
「その、今は別の所でお世話になってるんだ。色々厳しくて、こんな時間じゃないと此処に来れなかった。それに家の人達、皆がどうしてるかも聞かせてくれなくて……」
「俺達の事を聞くためだけにここに来たのか」
ラトカが頷くと、兵士は困ったように頬を掻いた。剣こそ降ろしはしたが、最低限の警戒はされているようだ。
「俺、遠くから皆を見かけた事があるんだ。その時見付けられない人達がいて……怪我とかしたのかと思って、心配になって、どうしても気になってさ。俺と同じ部屋だったイゴルさんとか……元気なの?ちゃんと帰ってきた?」
余計に怪しまれないよう、とラトカは最低限知りたい事だけを尋ねる。しかし、兵士はイゴルの名前を聞いただけでさっと顔を青褪めさせた。
血の気の引いた白い顔を蝋燭の明かりが揺れ照らす。
ラトカはぐっと唇を噛み締めた。兵士のその反応だけで、イゴルがどうしているかなど殆ど分かったようなものだ。
そのまま暫く、ラトカと兵士の間に沈黙が落ちる。
秋の夜風が何度もラトカを撫でた。体が冷えて、ぶるりと肩が震える。
あんまりにも体が冷えたのか、静寂を最初に破ったのはラトカのクシャミであった。すると漸く兵士が我に返ったように駆け寄ってきた。
「おい、お前風邪なんか引くんじゃないぞ。こんな薄着で……!」
「……俺は平気。帰ったら暖かい布団があるんだ。でも、戻る前にせめてイゴルがどうなったかだけは教えて」
ラトカが兵士の目を真っ直ぐに見据えると、兵士は僅かにたじろぐ。
兵士は何度か唇を戦慄かせた。
そうして、とうとうぽつりと小さく、呟くようにして言う。
「イゴルは、あいつは死んだよ。ユグフェナで死んだ。後ろから腹を刺されて……他にもリシャルドやドミニク、ヴォイチェフ、フレデリクやユゼフも死んだ。
ツァーリ……エリザ様も、カミルが死んじまってずっと様子がおかしいらしいな。眠ったみたいになっちまったって……」
兵士に次々と知っている名を並べられる度に、頭から血が下がっていく感覚がして、眩暈を覚えたラトカは震える指先で顔を覆った。
気不味そうに兵士が扉の前へと戻っていく。
ラトカは何も言えないまま、呆然とその場を後にした。もしかするとと思ってはいたが、はっきりと自分の知る者の死を突きつけられるとショックが大きい。
その上、自分の命運を握っているエリザの様子もおかしいと聞かされると、途端に足元がぐらぐらと揺れるように思えた。
酷い眩暈を堪えながら、館への夜道を辿る。
ふらふらとした足取りで去って行くその小さな背中が夜闇に紛れて消えていく様を、兵士は心配そうに見送った。
次に気がついた時には、ラトカは自室の寝台の上に蹲っていた。
脳が痺れているような気がする。眠気が酷くて、ラトカは布団を抱き込んだ。
ベルワイエに揺り起こされて、ラトカは目を覚ました。
意識はぼんやりと混濁している。目の周りにじんわりと熱いような、痛いような感覚がある。全身は怠く、重い。
「大丈夫ですか?」
心配など含まれない、冷淡な声が降ってくる。
ラトカは億劫さを感じながらもゆるゆると首を横に振った。何が大丈夫か聞かれているかも分からなかったが、何処であろうと首を縦に振れる所があるとは思えない。
「何かありましたか?」
「……いえ。何もありません」
ラトカが先程よりも強く首を横に振ると、ベルワイエは探るような目付きでラトカを見下ろした。冷たい視線に刺されて、ラトカの身が竦む。
「……そういえば、子供とはこういうものでしたね……………」
ぽつり、とベルワイエがしみじみとした声色で呟く。
何を言われたか分からず、ラトカはぽかんと顔を上げた。
ほんの少し眉を寄せたベルワイエと目が合い、慌てて再び顔を下げたラトカは、ベルワイエがこれまでとは違って気遣わしげな表情をしている事になど気が付かなかった。