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同じ名を持つもの・9

 翌日もまだ疲労が残っているような気がして、ラトカは重たく感じる体を引き摺るようにして修練場へと足を運んだ。


 館から修練場までの短い道中、ベルワイエは最初にラトカに「行きますよ」と声を掛けただけで、後は一言も喋ろうとはしなかった。

 館の大人たちは誰もがそうだ。余計なことは、何も喋ろうとしない。酷く事務的で簡潔なやり取りばかりで、そこには何の温かみも感じることは出来ない。

 村にいた頃から心に積もった孤独感が、兵舎暮らしで折角薄れ始めていたのに、再び無視できない程に膨れ上がっている。


 昨日と同様に修練場へとベルワイエに置き去りにされると、ラトカははぁ……と重たげな息を吐いた。

 エリーゼと会って、なんでもいいから会話をしたい。

 頭の中で様々なことがぐるぐると回っているままなのに、気分が落ち着かないせいで頭の整理もうまくつけられない。

 だから、一時の忘却が欲しい。


 そこまで心の中で願いを唱えたものの、それが殆ど叶いそうも無い事だという事は分かっていた。

 それ故に、せめて些細な日常会話でいいから欲しい、と願いを小さなものに変える。


 今までの生活が何一つ変わらないままであるなら、その願いさえ叶わなかっただろう。しかし、昨日からラトカを取り巻く人が一人交代した。

 まだ年若く、気の良さそうなクラウディアならば、もしかすると少しだけならば他愛ないお喋りにも付き合ってくれるかもしれない。

 そう考えれば、動けなくなる程に走らされても構わないとさえ思える。


 ほんの少しだけ自分を慰めたラトカは、ふと周囲を見渡した。

 修練場の中にまだあの美しい金髪は見当たらない。

 まあ、先ほどここへ着いたばかりだ。ゆっくり気長に待とう、とラトカは壁に背を預けた。




 ところが、四半刻が過ぎ、半刻が過ぎ、とうとう一刻経ってもクラウディアは来ない。

 流石に何かあったのかもしれないと思いつつ、同しようもないままその場に留まったラトカは、さらに一刻の間を一人で過ごした。


 結局いつまで経ってもクラウディアは修練場に姿を表さなかった。

 ベルワイエに勝手に動くなと言い含められている事もあって、ラトカは一人では動けない。何が起こっているのか分からず、かといって自分からは何も出来ない状況に、ラトカは言いしれない不安のようなものを感じた。

 ラトカの全ては館の貴族たちの手の中にあり、自分ではどうする事も出来ない。貴族たちはわざわざラトカにどうしてそうなるのかを教えてくれる事もない。

 それがどういう事なのか、唐突に突き付けられる形となった。不安と共に奇妙な焦りを覚えて、ラトカはとうとう、弾かれるように立ち上がると、一直線に修練場の出口へと向かった。


 二刻が過ぎても誰もラトカを呼びに来ないのだ。異常事態に周囲の様子を探った所で、誰にも叱られる事は無い……と思いたい。


 基地の通路を突き進みながら、そういえば、どういう訳か普段はちらほらと見ける筈のテレジア家の私兵の姿が見えない事にラトカは気付いた。

 何かあったのではないか、という予想はいや増す。

 自然とラトカは早足になり、更に加速して、気付けば追い立てられるように走っていた。


 館側へ出る扉を押し開いて、(まろ)ぶようにして外へと出ると、風に乗って人の声が幾つも聞こえてくる。

 館の表側に多くの人が居るようだ。ラトカは周囲に気を配りつつも、いつもエリーゼに会いに行っていたように影の中を通ってそちらへ向かった。


 建物の壁に背を預けるようにして、陰から館のエントランス前を覗き込む。居ない、と思っていたテレジア家の私兵がかなり多くそこに集っていた。その人だかりの中にはベルワイエやテレジア伯爵の姿も見えた。テレジア伯爵を見たのは、あのエリザの誕生祝の日以来だった。

 何が起こっているのかと、ラトカは息を殺してその光景を見つめる。誰もが東の空を見上げて、何処かへ動こうという気配も無かった。


 向こうの空が、一体何だというのか。

 訝しがるラトカは同様にそちらへと向けた。

 そこには夕暮れ以外、何も無い。ラトカの嫌いな赤い赤い空の色だけだ。


 少しだけバカバカしい気分になって、眩しい陽光に目を眇めて睨みつける。するとふと、空中に小さな黒点を見つけた。

 鳥か何かだろう、と思って見ていると、その点はぐんぐんと大きくなって、軈て翼らしき影が分かるようになった。

 やはり鳥じゃないか、とそれから目を離した途端、エントランス前の人だかりが突然ざわめき出した。


「見ろ、あれがラスィウォクではないか?」


「……ああ、あれはきっとそうだ!」


 ラトカは聞こえてきた声に首を傾げた。ラスィウォク?随分前に母が聞かせてくれた寝物語を思い出して再び山向こうに沈みゆく陽を睨んでみたものの、そちらにはやはり特に何も無い。


 エントランス前にいる人だかりの中で、中空へと指差しているものを見つけたラトカはその指す先へと視線を辿らせた。

 すると、そこには先程の鳥の影があった。……いや、あれは鳥ではない。更に大きさを増したその黒い影は、鳥のように翼を広げて空を飛んでいるものの、その形は鳥とは全く異なっていた。

 そして、その奇妙なものは真っ直ぐこちらへと向かってきているようだった。

 再び暫くその影を見ていると、それが何か鳥のようなものに乗った人の影である事が分かってきた。


 何だろう、あれは。


 最早単なる好奇心でそれを見つめ続けていたラトカは、影が細かさを帯びていくにつれて、絶句する事になる。

 徐々に形を帯びていったその影は、どうやらクラウディアに似ていた。そして、その腕の中にぐったりと抱えられている小さな影をラトカは見つけてしまった。


 夕陽に照らされて尚黒い髪が、風に靡きもせずにただてらりとその光を返している。だらりと下げられた両腕がぐらぐらと揺れるその様に、ラトカは知らず知らずのうちに顔から血の気が下がるのを感じていた。


 あれは、エリザだ。ユグフェナ城砦で何かが起こって、あの領主の娘が帰ってきたのだ。

 そう認識した瞬間、ラトカは氷の手に心臓を握られたような気がした。冬の水を浴びせられたかのように体が冷たく、そして胸は痛みを伴って悲鳴を上げている。


 死んでしまえと思っていた少女。最近は、彼女に対してどう思っていただろう。

 だが、今死なれては困る。ラトカには居場所が無いのだ──あの少女の手の内にしか。

 それはラトカが胸を毟りたくなる程悔しく無様な事ではあるが、事実であると言えた。ラトカを殺さなかったのはエリザであって、テレジア伯爵ではないのだ。


 凍りついたラトカは、二人が地上に下りてくるその様を、目に焼き付けるようにしてじっと見るしか無かった。

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