同じ名を持つもの・8
細剣の基礎がやっと身についてきた。
ラトカとて男子である。一般的な村の少年達と同様に、武芸が身について嫌な訳も無く。
しかもそれが、普通の平民であれば無縁である細剣の扱い方であれば尚更優越感はあった。
ところが、ようやく楽しくなってきた細剣の稽古が無くなるという。
蒸し暑さも少しはマシになった夏の終わり、突然聞かされたその話しに、ラトカは思わず「どうしてですか」と聞き返した。
「どうしても何も、最初からそう決まっていた事です」
ラトカに相対する男、ベルワイエの答えはいつもの通り素気無いものだ。
「細剣の稽古はなくなりましたが、今日からは槍の扱いを覚えてもらいます。師はクラウディア様、場所は修練場ですので、名はエリーゼではなくラトカと名乗りなさい。テレジア家の私兵に話し掛けられた場合もラトカと名乗って宜しい。行き帰りは私が付き添いますので、勝手に移動はしないように」
言うべき事を言い終えたのか、ベルワイエは踵を返してさっさと居なくなってしまった。
折角本名を名乗れるというのに、ラトカの気分は沈んだままだった。
どうしてせっかく覚え始めた細剣ではなく、槍なのだろう。重い気持ちのまま疑問を浮かべたラトカの心中に、引き摺られるようにして次々とこれまで考えないようにしていた事が浮かび上がる。
そもそも貴族の勉強を自分にさせるのは、一体何が目的なのだろう。
自分がかつて石を投げつけた相手を思い浮かべて、ラトカは今更その少女の思惑が全くわからずにいる事に気がついた。
処刑する、と言っていた。なのに当日の朝には髪を切られただけで、代わりに今居る部屋へと監禁された。
食事は質素だけれど満足な量を与えられたし、定期的に外にも出しては貰えた。毎日身体を拭く布と湯も用意された。お陰で村にいた頃の、髪を伸ばした痩せっぽちで汚い小さな子供の面影は一切無くなり、健康的に肉のついた、小綺麗な子供が代わりに出来上がった。
村の人はきっと、今のラトカを見ても気付かないに違い無い。皆ラトカを死んだと思っているし、そもそも殆ど接点が無かったのだ。
覚えているのは髪と瞳の色だけかもしれない。何しろその色合いが領主を思い起こさせるからと、当の領主は死んだというのにずっと忌避されたままたった。
だが、変わった自分の姿を、ラトカは「よし」とする事も出来ない。
あの村で母と過ごした姿、母に貰ったラトカという名はそう簡単に捨てられるものではない。
例え母が狂っていても。
例え母がラトカを傷つけようとした事があっても。
──ラトカという女性名と、女の子のように長く伸ばしていた髪は、どちらも母親がラトカを我が子と愛した事の証明なのだ。
汚いから、不健康だからと勝手に変えられて、不都合だからと別の名前をつけられて、勝手に奪ってくれるなと憤る気持ちは確かにラトカの中に存在していた。
だが、自分が生きる為には必要な事だということも、少しづつ理解し始めていた。
──貴族は、法の実行者だ。前の領主のように領民を虐げようとするなら別だが、もしも真っ当な貴族であろうとするならば法を曲げる事は逆に立場を危うくする。
法を守ることは己を守る手段でもあるというのは、平民だけでなく、貴族、王族にすら通じる事なのだ。
あの領主の娘は、エリザは、それを知っている筈だ。
知っていて尚、法をすり抜けてラトカを生かした。
過去に法に則った裁きを受けて、それでも生かされたというエリザがそれを行うのは、どれだけ重大な事なのか。
特にラトカは、その裁きに異を唱えて彼女に死を望み、石を投げて捕らえられた者だ。法に守られたエリザがラトカを生かしておくのは、害はあっても利は無い事だ。
ラトカと同じ様に、前の領主への恨みを唯一生き残ったその娘へと向ける人は少なく無いだろう。
ラトカを生かすという事は、今後再び誰かに同じ様に石を投げられても、殺さずにおくという事なのではないか。
そう考えると、憎いと思っていたあの少女の、小さな双肩に乗るものの大きさが、垣間見えたような気がした。
ベルワイエに連れられて久々に入った修練場には、見知らぬ兵がちらほらと見えた。領軍の兵と違って古ぼけた革鎧ではなく、金属の鎧を身に纏っている。
「ベルワイエ様、その子供は……?」
「次の春から領軍の見習い兵士になる予定の孤児です。手の空いたものが槍の指導をするとの事で。迷ったり変なところに入り込まれるのもいけないと思って、送ってきたところです」
「なるほど、しかしわざわざベルワイエ様が足を運ぶ必要は無かったのでは……?」
「他に手の空いている者が屋敷には居ませんからね。仕方ありません」
顔見知りなのか、兵士達はベルワイエに声を掛けてくる。兵士の話し先がラトカへ移るのを防ぐ為にか、さらさらと澱み無い嘘がベルワイエの口から出てくるのを、ラトカは胡散臭げに見上げた。
「指南役はすぐに来る予定ですので、修練場の端にいなさい」
視線に気づいたのか、ベルワイエにぴしゃりとそう言われて、首を竦めながらラトカは示された辺りへと向かう。
兵舎にいた頃ギュンターとの打ち合いで使った木槍を見たり、布を巻き直したりして暇を潰していると、「君がラトリカだな?」と涼やかな女性の声が掛けられた。
顔を上げた先には、美しい金髪を一括りにした女がいた。遠巻きに何度か見た事がある、クラウディアだ。
ラトカが「えっと……ラトカです」と返事をすると、クラウディアはそれだけで満足そうに頷く。
「ラトカだな、間違えてすまない。私はクラウディアだ。今日からよろしく頼む」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「ああ。それでは早速稽古を始めよう。まずは修練場を二十周走るところからだ」
クラウディアがさらりと言い放った言葉に、ラトカが手にしていた木槍がカラン、という音を立てて落ちた。
二十周というのは、それは大人の兵士が走る距離ではないか。
ちなみにラトカが今まで走った事があるのは多くても八周までだ。
それが、二十周?
「よし、行くぞ」
ラトカの様子を気にも掛けずに、クラウディアはとっとと走り込みを開始した。軽いペースはラトカでもそう思えるくらいのものだが、それでも二十周は無理ではないだろうか?
それでも一応クラウディアへとついて行ったラトカは、十五周を走り終えた時点で動けなくなり、初日の稽古は走り込みだけで早々に終了する事になったのだった。