同じ名を持つもの・5
次の日、ラトカは吐き気に苛まれる疲れて重い体を引き摺り、前日に採取した食べられる種子を手にエリーゼに会いに行った。
握り締めたまんまるい種子はラトカの手の平くらい大きさで、背の低い常緑樹に生るピンク色の実に包まれていたものだ。そのままでは食べられないが、茹でるとほっくりとした食感と僅かな甘みがして美味しい。
植物の種になる部分は体力をつけてくれるんだよ、とその存在をラトカに教えてくれた少女の言葉も耳の奥で蘇る。身体の弱いエリーゼに持って行くのに、それ以上似合いのものを思いつく事は出来なかった。
建物の陰を潜りながら、何日も会いに行っていないので、以前のようにエリーゼは自分を待っては居ないだろう、とラトカは考えていた。
しかし彼が建物を回って中庭に面した方へと出ると、エリーゼがどこかしょんぼりとした面持ちで窓枠に肘をついているのが見えて、どきりと鼓動が高く鳴る。
「っエリーゼ様!」
足早に窓へと駆け寄りながら少女の名を呼ぶと、エリーゼもラトカに気づき、驚きと喜びの入り混じった表情を浮かべた。
「エリーゼ様!」
自分が呼んだものと全く同じ名前で呼び返される。久々だからか酷く違和感を感じたものの、嬉しそうに顔を緩めたエリーゼの様子に、ラトカはそんな違和感など一瞬でどうでもよくなった。
あの領主の娘に勝手につけられた名前はこの上なく忌々しいが、この少女から名を貰ったのかと思えばそれほど悪い気はしなくなるのが不思議なところだ。
「ごめんなさい、何も言わずにずっと……来なくて」
「いいえ、そんな。……暫くの間こちらへいらっしゃらないので、心配しました。何かあったのではないかと……」
でも、お元気そうで安心いたしました、と眩しいほどの笑顔を向けられて、ラトカは罪悪感の刺さる胸にうっと小さく呻いた。
それはエリーゼに心配を掛けた事、それから彼女が自分になど心配することはないのではないか、などと疑った事両方への罪悪感で、ラトカはもう一度ごめんなさい、と頭を下げる。
そうして、その感情を少しでも軽くしようと握り締めていた土産を差し出した。
「あの、これ。採集したやつなんだけど」
どぎまぎしながらそれをもう一度握り込む。エリーゼの部屋は二階にあるので、これを渡すには投げ込んでやる必要があるのだ。
そんなものいらないと言われたらどうしよう、と心臓が跳ねる。何せ相手は貴族の子供だ。こんな、他の平民でさえ見向きもしない種子など渡されても、嬉しくもないのではないだろうか。
ラトカが緊張しながら見上げた先で、エリーゼがこてりと首を傾げた。そうして僅かに肩を竦めたラトカに、エリーゼは不思議そうに尋ねる。
「採集?とは、何ですか?」
それは予想外の反応で、ラトカの脳はあっさりと処理が追いつかなくなった。
「あ、……っえ?」
間抜けな声を上げて停止したラトカを、きょとんとエリーゼが身下ろす。お互いの間に沈黙が落ちた。
さいしゅうとは、なんですか。耳から入ってきたその問い掛けの意味を、ラトカがたっぷり五つ呼吸を数える間、全く理解できなかったのは仕方の無い事だ。
ラトカにとって子供でも出来る仕事として生活の中に当たり前にあるその行為は、しかし、普段自分で食事を作る事のない貴族の、それも病弱で殊更に箱入りとして育ったエリーゼにとっては最も日常生活から縁の遠い行為であった。
──突然、くすくすという笑い声が聞こえた。エリーゼの部屋の窓から聞こえたその音に、ラトカは身を強張らせた。
兵舎に入れられたラトカは、館に近づいて良いと言われた覚えはない。かと言って駄目だとも言われてはいないが、この館は貴族の住まいなのだ。平民の自分は基本的に近づいてはいけないのだという事を、ラトカは薄っすらと感じていた。
だからここへ来るときはいつも人目を気にして陰を通ってくるのに、とラトカは思う。エリーゼ以外の人間がここにいるラトカを咎めない保証は無い。
「なぁに、マーヤ。どうして笑っているの」
「……いえ、お嬢様。ただ、きっとお相手のエリーゼ様が吃驚されているのかと思いまして。すみません」
完全に凍りついたラトカを余所に、エリーゼは特に気にした様子も無くその声の主と話し始めた。声の主も穏やかな調子でエリーゼに答える。
「食べられる草花や木の実等を、摘み取って集めたりする事を採集と言うのですよ。エリザ様が兵舎に居た頃のお話で、そういう事をされていたと話していたでしょう?」
「ええ、確かに。……そうなの、採集っていうのね」
納得したような、満足げな笑みを浮かべたエリーゼがラトカに向き直った。ラトカは咄嗟に笑みを浮かべたが、頬が引き攣っているのが自分でも分かる程だった。
エリーゼの部屋にいる何者かは、ラトカが何度もここに来ている事を既に知っている口振りだった。今までエリーゼと話していた時も、あの声の主はエリーゼの部屋にいたのだろうか。隠れて話を聞いていたのだろうか。
この心安まる遣り取りは、エリーゼと自分の二人きりのものだと思っていた。そして、ラトカはその事に何処か神聖さすら感じていたのだ。
ラトカは──しかし、その頬が引き攣るほどの複雑な感情の一切を頭の片隅に全力で追いやった。
エリーゼは貴族だ。きっと貴族は個人的な遣り取りというものが第三者に聞かれている事に慣れきっていて、それが当たり前なのだろう。
採集という言葉を知らなかったように、エリーゼにとってそれが普通の事で、つまり彼女に対してラトカら何一つとして言える事は無い。
ただ、彼女がどんなに自分の思い描く貴族というものと異なっていようと。彼女は紛う事なき『貴族』の一員であるのだと、突き付けられたような気がした。
ラトカの根底に今もその存在を残す、紅碧の瞳の少女が憎んでいた『貴族』の。
「どう致しました?」
エリーゼが不思議そうに首を傾げてラトカを身下ろす。
「──な、にが?どうもしないよ?」
お互いの立ち位置が、そのまま自分達の関係を示しているように思えて、ラトカはそっと視線をエリーゼから外した。