同じ名を持つもの・3
「おや、起きていたかね」
半開きだった部屋の扉の方から突然声を掛けられて、ラトカはぱちりと一つ瞬いた。視線を向けると、丁度壮年の男が扉を押して部屋へと入ってくる所だった。
ひょろりと背の高く、兵士だというのに弱そうな印象を受けるその男は、領軍で最も年長の兵士であり、知恵が回ると他の兵にも慕われている。
男はラトカに向けて穏やかに目尻の皺を深めた。赤い夕陽の光に照らされて、影が細かく刻まれる。
「良かった、君を起こしに来た所なんだよ。今日はクラウディア様がバルコワを仕留めてね。今皆で焼いていたところだったんだ」
食べるから起きておいで、と男は手招く。寝台の上で寝そべったまま、ラトカはそれをぼんやりと見上げていた。
男が何を言っているのか、よく分からない。一つ一つの言葉は理解できても、それらがどうして繋がるのかがよく分からない。
「……どうしたね?具合が悪いのか?」
男はラトカの様子を不思議に思ったのか、寝台の横までやって来た。心配そうな顔で手を伸ばす男に、慌ててラトカは首を横に振った。
「そうじゃ、ないけど……」
戸惑うラトカを、男は数秒眺めた。そうして、穏やかに笑みを深める。
男はひょいとラトカを抱えると、何も言わずにそのまま歩きだした。ラトカも何も言わなかった。驚いて固まってしまったから、声が出せなかっただけではあったが。
「連れて来たよ」
男に抱えられて入った食堂には、兵士の殆どが集まっていた。ラトカの兵舎入りと入れ替えになるように兵の半分が東の開拓に出ているらしく、百人は座れるように作られた広い食堂はややがらんとして見える。
「おー、流石じいさん」
「じゃじゃ馬お嬢さんをごく簡単に連れて来るとは、流石年の功」
「これ、小さな子供を大人気なく虐めるんじゃない。接し方が分からぬからとからかい倒すなど、阿呆な真似などするものではないよ」
自分を抱きかかえた腕が、兵士達の言葉を気にするんじゃないよと背を叩きながら、落ち着いた声でそう諭すのが聞こえた。
──何故だがとても気恥ずかしくて、我慢出来ないほど面映ゆくて、ラトカは顔面を男の肩のあたりに押し付ける。
男の腕がラトカをあやすように揺すっている。
兵士達が今の自分の様子を揶揄しないだろうかと、その事だけで頭が一杯になった。何と言われるだろうか。小さな子供のようだとでも言われるのか?
だが、予想に反して兵士達は決まり悪そうにもごもご言いながら黙った。絶対に下卑た笑いが起こると思っていたラトカは、萎れるように静かになった兵士達を逆に訝しむ。
そろりと顔を僅かに上げて、兵士の様子を伺おうとした。丁度そこにズイ、と焼けた肉の刺さった串が差し出されて、思わずのぞける。
「……お前の分だよ」
肉を差し出した若い兵士はラトカから視線こそ反らしていたが、受け取るのを躊躇うラトカにさらにズイ、と肉串を押し出してくる。他の兵が持つどれよりもその肉が大きいので、殊更にラトカはそれを受け取っていいのか分からず困惑した。
「間違いなくお前の分だよ、早く受け取れっての。夕飯、取りに行ってねぇんだろうが!」
あまりにいつまでもラトカが串を受け取ろうとしないので、兵士が耐え切れないようにそう唸った。その剣幕に驚いて反射的に串を握っていた。若い兵士は直ぐ様パッと身を翻して離れて行く。
「本当に仕方のない奴が多いものだ」
一連のやり取りを見ていた、ラトカを抱えた壮年の男が苦笑を漏らす。
「全くだ。どいつもこいつも、ガキ一人に大騒ぎしやがって」
それに肯定を示す言葉がすぐ傍で聞こえて、ラトカはびくりと驚いた。
顔を向けているのと反対の方向からしたその声はギュンターのものだった。すぐさまそちらに向き直ったラトカが見たのは、いつも通り眉間に皺を寄せた渋い顔のギュンターである。
「ああ、ツァーリの時から何も進歩してないね」
「進歩どころか、悪化してる。あれはどんだけ揶揄られても気にも留めなかったが、そのガキはそうじゃねえだろうに」
大人二人の会話がどういう意味なのか少し察したラトカは、そっと瞼を伏せた。
そして、領主の娘もこんな風に口汚い嘲笑に晒されてたのか、と内心で僅かに驚く。
脳裏にその存在を思い描くたび憎しみが首を擡げていたのに、この時は全く別の感情が靄のように渦を巻いていた。
ラトカには、それは驚く程不思議なことに思えた。
その靄のような感情は、その日からラトカの心中から消える事は無く、寧ろそれが心の中を占める範囲は少しずつ大きくなっていった。
領主の娘への敵愾心は無くなっていない。だが、ラトカの心の中で芽生えた謎の感情は広がっていくばかりだ。
その上、苛立ちが薄まるとそれに引き摺られるようにエリザへの殺意が立ち消えていく。
自分の調子が狂う感覚に、ラトカはついていけない。
バルコワの肉を分け合った件以降、領軍の兵士はからかう以外にもラトカに積極的に話しかけてくるようになった。
あの日ラトカを食堂に連れて行ってくれた兵士は、知恵ある最年長として他の兵士達から一目置かれていた。そんな男に小言を貰って、兵士達はラトカへの扱いを考え直したらしい。
そもそも色々と規格外なエリザを兵士達はラトカの比較対象にしていたが、エリザの精神の成熟度は歳相応とは言い難いものだという事を彼等は理解していた。
同じくテレジア伯爵によって兵舎へと入ったラトカをついついエリザと同様に見ていたが、言われてみれば、あんな子供がエリザ以外にもいると考えたくはない。
そこで不器用極まりない兵士達は、取り敢えず今までと同様の行動を取りつつ、ラトカとの対話を元にその対応を学習する事にした、というのがラトカが戸惑うほど急速に変化していく兵士達の行動の真相である。
はじめは本当にちょっとしたことから。お互いに戸惑いながら一言二言を交わすうち、受け答えの言葉は当たり前のように増えていった。
ラトカはその変化にはかなり当惑していた。兵士達と言葉を交わすたび、どういうわけか苛立ちが萎えていく。
最初は朝食の味のことだった。食堂で近くに座った青年兵士が話しかけてきた。それから、ギュンターに転がされ、いつもの様に揶揄を受けた後に励ますような言葉がぽつりと掛けられた。領主への恨み言を言い合ったり、訓練メニューの厳しさを愚痴り、遂には彼等の出身の村や家族の話へと、兵士達の語る話は次第に深みを帯びていった。
領軍の兵士の話は、基本的に衝撃的なものが多かった。
例えば彼等が元盗賊で、ラトカと同じように領主を憎んでいる事。兵士達がその娘であるエリザは憎いと思っていない事は最初から言われずとも解るほどだったので、これを知った日、ラトカはよく眠れないほど混乱した。
兵士達も、エリザが兵舎へ入った当初はかなり手酷く扱ったのだという。ラトカなどよりもよほど容赦なくギュンターから傷めつけられていたとか、揶揄より酷い単なる罵声を浴びせられていたとか、そんな話も聞いた。
「あ、いたいた。ラトカー」
行軍の訓練の終わった後。ラトカが木陰に座り込んで休んでいると、名前を呼んで近づいてくる声がある事に気づいた。
「パウロ」
「だいぶ疲れてるね。大丈夫?」
癖毛の金髪をふわふわと揺らしながら、ラトカより幾つか年上の少年がラトカの横へと腰を下ろす。少年は名をパウロといい、ラトカを除く領軍の最年少の見習い兵だ。
最も歳が近い事もあってか、最近のラトカはその少年と話す事が増えた。というより、パウロが積極的に話しかけてくる。昼の休憩時に声を掛けられたのは初めてだが、パウロのごく自然な態度がラトカの意識からその事実を忘れさせていた。
「平気……」
訓練で疲れているのは確かだったが、ここに座り込んでいるのはどちらかと言えば暑さにバテているせいだ。夏も盛りとなって、カルディア領の気温が最も高くなる月である。
少々心配そうにしているパウロに対してラトカがもそもそと答えると、パウロは気遣わしに眉を下げた。どうやら彼の方は暑さには強いらしく、訓練の後だというのにけろりとしている。
「そっか。じゃあ、昼食貰いに行かない?」
「んー……もうちょっと涼みたい」
木陰の外は眩しい程に陽の光が照っていて、そこへ出て行くのが躊躇われる程だった。肌が白いので日差しに弱く、暑さも苦手なラトカには、この木陰を出ていくほど昼食を取ることに魅力を感じられない。そもそも食欲も殆ど感じないのだ。
「おうい、大丈夫かね?」
そこへ更にもう二人、今度は領軍最年長である兵士が若い兵士を伴ってひょこひょことやって来た。
「カルヴァンさん、イゴルさん」
口をきくのも億劫なラトカに代わり、パウロが男の声に応える。カルヴァンと言う名のその兵士は、バルコワの件から付き合いを持つ事になった男だ。のそのそとそのカルヴァンについてくる青年はイゴルといい、ラトカと同室で眠る兵士である。二人は人の良い笑みを浮かべて木陰まで来ると、ラトカとパウロに大振りのカップを差し出した。
「水分補給はしないと」
水で満たされたカップを、ラトカは黙って受け取る。
パウロとカルヴァンは、積極的にやり取りをするようになった兵士達の中でも最もラトカと親しくなった二人だ。年齢の関係性から世話を焼いて貰っていると言ったほうが正しいかもしれない。部屋が同じであるイゴルも、似たような具合でラトカを世話していた。
カップを傾けて、水で喉を潤す。それだけで随分と楽になったような気がする。
「ありがとうございます」
立ったままの二人を見上げてラトカがぺこりと頭を下げる。そうすると、イゴルの手が伸びてきて、ラトカをひょいと抱え上げた。
「……早く行かないと昼を食いっぱぐれるぞ」
ほぼ反射的に食欲が無い、と言い返そうとして、しかしラトカは口を噤んだ。先月であったならば苛立ちに任せて確実に口にしていた言葉だが、今日はどうしてかそれを言うのに気が引けた。
木陰で立ち上がったパウロを見る。食欲が無いから放っておいてくれとラトカが言ったとして、ラトカに付き合って座っていたパウロが昼食に行くだろうか。
恐らく、そのまま木陰に留まっただろう。ならばラトカは昼食を取りに行くべきだし、動けないラトカを運んでやろうという親切にわざわざ憎まれ口を叩く気も無い。
他人との遣り取りに常に飢えていたラトカにとって、否が応でも共同生活を送る者と関わらねばならない兵舎での暮らしは確実に彼の精神を癒やし、正常な状態へと戻しつつあった。
年齢相応の子供として周囲に扱われるようになり、他人の鬱屈した感情を浴びせられる事が無くなって、ラトカ自身の領主の娘に対する殺意や貴族への憎しみといった精神に負荷の多い感情が薄れていた。