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同じ名を持つもの・2

 領軍の兵舎に叩き込まれて一月半も経つと、昼に吐き戻さない程度には体力がついていた。

 それでも夕食を狩りに行くほどの気力は無く、ラトカは未だに夕食抜きの生活を続けている。


 今日は行進訓練の距離を更に延ばされた。それでも最後まで立っていられたのは進歩なのだろう。だが酷く足が痛むので、エリーゼを訪ねることも止めて早々にラトカは自分の寝台へと潜り込んだ。


 狩りといえば──領主の娘の新しい護衛となった貴族の女性の姿が思い出された。金髪の女で、ラトカが稽古を終えた後に修練所へやって来て槍を振っているのを何度か見かけた事がある。

 その女は領軍の誰よりも槍の扱いに長けていて、気紛れに狩りに参加しては大物の獲物を容易く取ってくる。お陰で、ラトカを『お嬢さん』と揶揄する兵士はほんの少し減った。


 そんな彼女も、日頃の言動を観察する限りラトカの頭の中にある『貴族の像』には当て嵌まらない。

 「貴族の娘は皆、毎日新品のドレスを着たがるのよ」……ラトカの耳の奥で懐かしい声が蘇る。

その声を聞いたのはもう二年も前の事なのに、その記憶を鮮明に覚えている──寧ろ、忘れられない。




 四年前に領主が死んで、カルディア領の領民は年々少しずつ人の暮らしを取り戻していった。

 村の大人達がやっと畑に黒麦の種を撒いた二年前の春の終わり頃。まだ誰も他人に構う程の余裕の無い時期に、巡回の修道女の旅団が突然シリル村を訪れた。

 当然村の者達は彼女達を歓迎する事など出来なかった。しかし心の平静を己に課す修道女達は村人にあしらわれても不満の欠片も見せず、村への奉仕活動をすると共にある『話』を広める事によって急速に村へと溶け込んでいった。


 ──今の貴族達は皆、自分の仕事を忘れているの。なのに対価である権利は最大限に振り回して、贅沢の限りを尽くしてる。神の教えに反する行いだわ。


 ラトカにその『話』を教えてくれた少女がよく繰り返した言葉がそれだった。

 同時に語られる、修道女達が旅の間に見聞きしてきた貴族の生活や領主貴族の傲慢な振る舞いの話に、まさに領主に生き地獄を味わされたシリル村の人間がその言葉を信じない筈が無かった。ひいてはそれを語る修道女達を信じない筈もなく。


 結果として、シリル村の村人は今でも彼女達を盲信の対象としている。

 話の半分も理解できなかったラトカでさえ、その例外ではなかった。寧ろ最もその話を信じ、強い肯定を示したのが彼だった。


 言葉を交わした修道女見習いの少女の事を、今でもラトカははっきりと覚えている。少女に語られた言葉は全て、そのまま彼の貴族に対する常識として定着していた。

 その盲信の理由は、当時のラトカの置かれた状況が関係している。




 ラトカはその頃、毎日全身を傷だらけにしていて、昼間は居場所を求めるように一人でふらふらと外を出歩き、夜は家の戸口の側で眠るという生活を送っていた。

 家にいると、何が起こるか分からなかった。

 心を病んだ母親が、とうとうラトカを認識できなくなっていた。

 黒い髪を見て領主を重ね、赤い瞳を見て領主を重ね。ただ色味が似ているだけだが、心を壊した母にはそれで十分だった。──錯乱したままの母がラトカの瞼を縫い付けようとした。それ以来、親子はお互いを恐怖の対象として捉えるようになっていた。

 ラトカはまた、村の外側をいつも歩くようにしていた。村人はラトカを疎んでいた。彼にとっては、家の中と同じく、村の中も何が起こるか分からない場所だった。


 ラトカには父が居ない。母親が『労役』先で孕んで出来た子がラトカだ。

 腹が出ていては働けないからと村に戻された時には、既にラトカの母は心を壊して正気を失っていた。それまで自分が何処にいたのか、腹の子の父親が誰なのかも分からないという状態だった。


 『労役』で孕んだ子供は男であったら殺される決まりだった。殺さねば村人の全てに罰を与えると領主が言ったのだ。

 『労役』で向かわせられる先は皆がバラバラだったが、唯一の共通点は『貴族に仕える為に行く』というものだった。──つまり、子を孕んでくれば胤は貴族のものである可能性があった。女児はともかく、男児だけは生まれてきてはいけなかった。

 罰を与えられる村人の範囲の中には子供を産んだ女自身も勿論含まれていて、故に母となった女達は男児が産まれたら流れたものとして我が子を諦めていた。


 しかし、ラトカの母は気狂いであった。産婆も呼ばずに、一人で子供を出産した。

 彼女の肚から産まれたのは双子だった。生きている男児と死んだ女児だった。

 ラトカの母は女児の死体を抱えて村を周り、流産したと偽った。そうしてラトカは、領主が死ぬまでその存在を隠し通された。物心つく前も、ついた後も、領主の死が伝えられるまでずっとボロ小屋のような家の中で母親と二人で過ごした。

 『ラトカ』という女性名も、本来はその姉だか妹だかに付けられる筈だったものだ。ラトカの母は自分の子供に男性名を用意しなかった。


 領主が死んだと聞いてから、母親は更に気を狂わせた。

 その狂気の矛先を向けられたラトカは、母親の常軌を逸した行いに耐えきれなくなり、外へと逃げた。

 そうして彼の存在は、漸く露見した。

 ラトカを殺そうとする決まりは既に無くなっていたが、彼の生い立ちは十分に村人に疎まれる要素をいくつも抱えていた。

 母親は一時的に落ち着きを取り戻したが、二年の時を経て、より酷く心を病んでいった。隠して育てた大切な息子を、そうと認識できなくなる程。


 毎日とぼとぼと地面を見ながら村の外縁を彷徨いた。そうして歩きながら、ラトカは自分が憔悴していく様を黙って観察していた。それまで彼の世界の全てだった母親が、彼を害そうとした事が、彼の精神をも蝕んでいた。


 ──どうして俯いて歩いてるの?前見て歩かなければ、とっても危ないわよ。


 最初にそのハキハキと気力に満ちた声が聞こえた時には、ラトカはそれが自分に向けられたものだと思わなかった。

 家の外では自分が透明になった気がしていた。

 その時の彼には、他人とのやり取りが何よりも足りなくて必要な事だった。


 ──ねえ、大丈夫?


 肩を掴まれて、心臓が止まるかというほど驚きながら振り向いた。

 ほんの少しだけ高いところから見下ろしてくる、夜明の空の色をした瞳の中に、真っ直ぐ自分が写り込んでいるのが見えた。




 火に似た色の眩しさが瞼越しでさえラトカの瞳を灼いた。


 照らしてくる光に煩わしさを覚え、それまで微睡んでいたラトカの意識は一気に覚醒する。顔を背けて目を開くと、窓越しに夕日が差し込んで部屋中を朱色に染めていた。


 ……訓練を終えた後、すぐに眠ったんだったか。


 寝起きで働かない頭を何とか動かして現状を把握させる。

 ついさっき寝台へと倒れ込んだような感覚だったが、数刻眠りこけたらしい。少しは楽になった身体を起こして、夕日に完全に背を向けた。


 部屋の外、廊下を挟んだ向かい側にある食堂から、兵士達の楽しげな騒ぎ声が響く。

 壁を挟んで不鮮明なその音が、そのまま周囲と自分の関係性のように思えて、ラトカはぎゅっと唇を引き結んだ。

 ラトカは夜明は好きだが、夕暮れは嫌いだ。

 それは今のように、自分と壁を隔てた向こう側で皆が楽しそうにしている音を聞いていた、寂しい記憶が原因だろうか。

 心の壊れた母親の待つボロ小屋へ、汚泥のように沈み込んで混ざる様々な感情を呑み下しながら帰路を歩く時。道沿いの家から聞こえてくる生活音や話し声は、それだけでラトカの柔い精神を傷付けるには十分なものだった。

 子共が親に名を呼ばれるのを見るだけで、ラトカはどうしようもない妬ましさと悲しさに疲弊を重ねていた。


 誰でもいいし、どのような事でもいいから、とにかく自身を見て、そこに居るものとして認めてくれる人間をラトカは渇望していた──今でもしている。


 それを最初に叶え、それどころか様々な事を話してくれたのが、紅碧色の瞳をした修道女見習いの少女だった。それだけで、彼女はラトカの盲信を得るに充分な存在だった。


 追憶と共にじわりと広がる孤独感を、緩く息を吐いて意識の外へと追い出して、ラトカは夕陽に照らされた壁をなんとはなしに見上げた。

 カルディア領の夕暮れは短い。朱色に染まっていた、と思った部屋の中はいつの間にか赤みを増して薄暗くなってきている。


 夜明の空があの少女の瞳だとしたら、血のように赤い日暮の空は領主の娘の瞳に似ている。或いは、既に死んだ領主に。

 ふとそこに、自分の瞳の色もそうなのだろうかという疑問が浮かぶ。赤い瞳だとは言われるが、自分の瞳の色など自分では見えないのだ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 確かに、憎悪の矛先を向ける相手が必要ですね。
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