同じ名を持つもの・1
……花の香りが僅かにして、瞼を押し開けた。
布の感触が身体を受け止めている事には今だに慣れない。独特な藁の香りを懐かしく思いながら、少年はごろりと転がって仰向けになり、身体を起こした。
与えられた寝床は木板張り上に毛皮なり、と織り布を敷いてあるだけで固く、寝心地は非常に悪い。おかげで目覚めは良くなっているのかもしれない、というのが、思いつく限りたった一つの良い所だろうか。
そうして一つ、彼は緩く息をつく。枕際に置いた一輪の花から、やはりほんのりと甘い香りが肺へ染みた。
狭苦しさと堅固さの両方を感じさせる石造りの小部屋には、この部屋を塒とする他の連中の高鼾が盛大に響き渡っている。すぐ横にある窓を外から覆う木板を外へと押し開けると、外からは薄明かりが射し込んできた。
夜明けの前の、ほんの僅かな時間。
月と太陽の間で華やかに色付いて白む空に、紅碧がじわりと広がるその一瞬が、一日の中で最も美しい瞬間だと彼は常に思う。
完全に空が抜けるような青さを得てしまうまで、少年はその様をじっと眺めていた。起き抜けでぼんやりとしていた頭が、その間にのろのろと働きだす。
紅碧の色、という言葉を教えてくれた人の面差しを思い出して、彼はじくりと痛む胸を抑えた。巡回の修道女達の中に、混じっていた少女。過ごした時間は短い間だけだったが、だからこそ、鮮明にこの夜明の空と同じ色の瞳を憶えている。
そろそろ起床の時間だろうと窓に背を向け、寝台から立ち上がると、部屋の出入り口に掛かる鉄板を木の小槌で遠慮なく叩いた。
ガンガンガンガン、と容赦の無い大音量が煩い鼾を掻き消して、むさ苦しい男達を夢の世界から引きずり出す。
「朝だ、起きろオッサン共」
「……ぉ、おお。お早うさん、ラトカ」
「全く、起こし方に容赦ねえよなァ、毎朝……」
少年がここへ来てもう半月になる。朝の起床を告げるのは最初に起きた奴という決まりがあるのだが、今のところ、彼一人が毎日この鉄板を叩いていた。
今日も朝から大人の兵士に吹き飛ばされて、地面に十回も転がされた頃にはラトカの体力は限界を迎えていた。
いつもの事だが、周囲にいる粗暴な兵士達は彼がこの剣の手合わせで砂を噛む度にヤジと嘲笑を飛ばしてくる。酷く屈辱的なそれに、この日ばかりは彼は何とか息を整えて声を上げることが出来た。
何しろ兵士達のヤジといえば、
「おいおい、だらしねぇなァ!ツァーリは五歳の時でももう少し粘っていたぞ!」
「五歳の女に負けるなんざ、麦を刈れるようになった男としちゃ有り得ねぇ事だな!」
「だからよ、ラトカちゃまは『お嬢さん』なんだって俺ァ言ってるだろ!」
これである。
ラトカをこの兵舎へと放り込んだ伯爵が、その際にラトカを指して「カルディア子爵と同じように鍛えよ」などと言ったせいで、事あるごとに兵士達はあの少女との比較を口にし、それに負けるラトカを『お嬢さん』だと囃し立てるのだ。
見た目の貧相さや母に似た女顔はラトカにとって十分なコンプレックスであったし、箱入り娘を揶揄する意味を持つ『お嬢さん』という呼び方もラトカの屈辱を煽った。
「煩いッ!俺はそのツァーリとか言う奴とは違って、剣術なんか初めてやるんだッ!!」
苛立ちのままにそう吠えたラトカに、兵士達は一瞬ピタリと黙り込む。
これで静かになるか、とラトカが思ったのも束の間。兵士達は堪え切れないといった具合に、先程よりも更に煩く笑い出す。
「ツァーリの奴だってここへ来るまで剣なんか触った事もありゃしねぇよ!」
その嘲笑には、流石にラトカもぐぅっと押し黙るしか無い。
──クソッタレ!!言葉には出さずに、ただただ口汚い罵りを吐いた。
貴族は小さい時から剣を習う。何年か前に、シリル村へと滞在した小さな修道女は確かにそう言っていたのに。
比較相手は元々剣の手ほどきを受けていたと思えばこそ、今まで何とか耐えられていたヤジだった。今更露見した事実に、彼のなけなしの矜持はずたずたになる。
何よりその比較相手が悪かった。ツァーリと呼ばれるその少女は、ラトカが何よりも憎く思っている領主の娘──正確に言えば、現領主──だった。
わけの分からない憤りと悔しさに思い切り顔を歪めたラトカを見て、流石に叩き過ぎたかと兵士達の笑いは萎れるように消えていく。あんなに煩かったのに、今度は何で静かになったのかと、それさえも今のラトカには癇に障った。
「──まぁ、その、なんだ。あんまりうちのお館様を侮るなってこった」
兵士の誰かがそうもごもごと言うと、他の奴らもそれにもごもごと同意のような言葉を零して、冷めたように散って行く。
──一体、何だってんだよ!!
苛立ちのままに右手の拳を地面に振り下ろしたラトカに、それまでは一言も聞こえなかった冷たい声が落とされる。
「早く起きろクソガキが。そんだけ元気なら、あと五回は打ち合い出来るだろ」
同時に先程手の中から吹き飛ばされた木剣が腹の上に降ってきて、ラトカはぐえっと呻いた。
恨みがましさを込めた目でそんな暴挙を八歳の子供に躊躇いなく行った相手を睨む。寝転ぶラトカの頭上に立ったその男は、矢鱈と鋭い眼光を返してきた。
「……すいません」
渋々謝るラトカだったが、男の眼光には一切変化が無い。慌てて飛び起きて剣を構えると、男はほんの少しだけ足を引いていた。
蹴る気だったか、やっぱり。
間一髪で危機を逃れたラトカに対し、男が小さく舌打ちする。
「おら、ボケッとしてないで始めろ」
「はい、ギュンター師匠」
ラトカは一つ頷くと、そのまま男に突っ込んだ。
……僅か二度、剣を交わらせただけでもう一度地面に転がることとなった。
昼からは自分の夕食を摂りに行かねばならない。それがこの領軍の決まりであるという。
嘔吐するほど体力的に追い詰められて、酷い疲労を抱えながらの狩りなど無理だ。少なくともラトカはそう考えている。
ひもじい思いは慣れている。不貞腐れたような気持ちでそう自分に言い聞かせて、今日までラトカは採集に出ていない。
その代わり──
「あら、今日も来てくださったのですか?」
人目を気にしてそろそろと……というよりは疲れた身体を引き摺ってのろのろと影を通り、ラトカの目には憎い領主の象徴であるきらびやかな建屋へと向かう。そうして複雑な形の中庭の一画へと躍り出ると、窓の上から柔らかな声が降ってきた。
「エリーゼ様!」
ラトカが見上げると、二階の窓からちょこんと顔を出してこちらを見ている少女と視線が合う。彼女はごく上品に、楽しそうな笑みを零した。
「ふふふ……おかしいわ。あなたも『エリーゼ様』でしょう?」
その言葉には僅かに苦い思いが込み上げたが、それを飲み込んで少女に笑みを返せる程度のものだ。ラトカにとってはそんな事よりも、エリーゼが今日はかなり元気そうだという事の方が大事に思えた。
「エリーゼ様、本日はどのような事をお話してくださるのですか?」
「なんでも。……それよりエリーゼ様、お……私を呼ぶときに様なんてつけないでって言っただろ」
ラトカはもごもごと、せめて自分にも許されるであろう小さな願望を口にした。ここへ来る度毎回言っていると思うが、エリーゼは楽しそうに笑って「ごめんなさい」と言うだけで、はいと頷いた事は一度も無い。
本当はこの少女には、「ラトカ」と自分の本当の名を呼んで欲しいとさえ思ってはいるのだが、その名をエリーゼに告げることはラトカには許されていない。
だからせめて、もう少し親しげに呼んで欲しいと願うのだ。
貴族のお嬢様を相手に、何て大逸れた願い事をしてるのだろうという畏れはあったが──それを口にするのが止められないのは、エリーゼが余りにもラトカの中にある『貴族』の像に当て嵌まらないからだ。
彼が話しに聞いていた貴族というのは高慢で浪費家で平民を人とは思わないくせに、飾り立てる事とお喋り事にしか能のない存在だった。
それをラトカに話したのはたった一人の見習い修道女だったが、彼には他の話を聞く術は無かったし、聞きたいとも思わなかった。
残念ながらその評価は、この領の領主にぴったりと添ぐうものだと、彼には思えたからだ。
しかし優しい笑みを向けてくれるエリーゼと、その貴族像は一向に結びつかない。
憧れにも似た仄かな思いで、エリーゼは特別なんだ、とラトカは彼女を神聖視する。
一方で、脳裏を過ぎる面差しがひどく彼を苛立たせた。
毎日毎日、兵舎での生活でその名を聞かされる度に、ラトカが思い描いていた『貴族』の像をやはり裏切る存在──兵士達にツァーリと呼び慕われる少女、エリザ。何処までも憎たらしい、カルディアの娘。
何が『ツァーリ』だ、とラトカの苛立ちは今朝の事もあって領軍の兵士達へと向いた。
ツァーリ。ユグフェナ地方に残る古い言葉。聖アハルさえ生まれる前の、ユグフェナを治める王についての寝物語がその由来となる。
何が『ツァーリ』だ。
エリーゼへと向けた笑顔の裏で、ラトカはもう一度そう吐き捨てた。