55 ユグフェナ城砦防衛戦・終
3/11 最初のあたりを前話最後へ移動、さいごのあたりに文の付け加え
カミルの肩に庇われた視界では、何が起きているかすら分からない。
バタンと乱暴な扉の閉まる音──それに、扉を挟んだ向こう側から不鮮明な洪笑が轟く。
カミルは隣の部屋へと飛び込んだようだった。
寝台の上へと性急に放り投げられ、羽毛布団に顔から落ちた。
瞬時に腕を突っ張って顔を上げると、扉の前にカミルがそこらの家具を積み上げている所だった。すぐ横にあった鏡台、椅子、衣装箱、チェスト──あっという間にそれらが積み上げられていくのを言葉も無く眺めるしか無かった。
先ほど口の中に捻じ込まれたのは、カミルの指だったらしい。舌を噛まないようにということなのか。
カミルの脇腹の辺りから、彼が家具を動かす度に血が吹き出す。しかし、動こうとするとそこに居ろとばかりにカミルから鋭い視線が向けられて、身体が硬直してしまう。
そうしている間に扉が叩かれる。小さなノックに似た力加減だった。
不気味な笑い声と、カタカタというあの嫌な音がその向こうから聞こえてくる。
扉が再度叩かれた。今度は先程よりもほんの少し大きな音がする。
遊んでいるのか、あの森林狒狒は。獲物を追い詰めて精神的に嬲ろうとするその醜悪さが嫌に人間地味て感じられた。
やがてカミルがずるりと力の抜けるような動作で積み上げた家具に背を預けて座り込む。
駆け寄ろうとした私を、再度彼が睨みつけた。胃の底から込み上げるような震えが全身に走り、全く力が入らなくなる。
「カ、カミル……」
情けなく震える声が喉の奥から溢れて来た。今更何を彼に言おうというのか、この私が。
人の声を操る森林狒狒に陥れられたのは、どう考えても私のせいだった。
カミルの横腹からは止めどなく血が溢れて、石造りの床に赤がじわじわと広がっていく。内腑を傷付けたようで、カミルの口の端からも黒ずんだ液体が垂れていた。
指一本すら動かせなかった。脳が痺れたように鈍り、カミルを見つめること以外の動作を拒んでいた。
二人きりになっても、死体の詰め込まれた部屋があっても、カミルは私を殺そうとはしなかったのに。私の不信がこの状況を招いたのだ。
もうあの怪我では、死を待つばかりだ。横腹に大穴を開けて、内臓まで傷ついていては、治療する術が無い。
喉の奥から熱を持って痛む。
視界が滲んで、目尻からは勝手に生温い水が零れて頬を伝っていく。
カミルは、穏やかに笑みを浮かべて見せた。心臓を握られたかと思うほどに痛んだ。
「……いいよ。仕方ない、事だった」
カミルが弱々しい声で言葉を口にする。いつ血を吐くかと恐ろしくて、いっそう身体が震えた。いや、既に酷く震えていたのを、漸く知覚したらしかった。
「僕の事を、信じられなかった、んでしょ?それは僕が隠し事を、してる限り、仕方ない事だった」
カミルがぽつりぽつりと言葉を続ける間にも、ドアを叩く音は徐々に大きくなっていく。それがこれ以上ないほど煩く感じられた。音に邪魔されずにカミルの言葉を聞きたかった。
「僕がツァーリの家族を殺、した商人の、息子だって、知った、んでしょ」
頷く事も出来ずに、息をする事すら忘れて彼の言葉を聞いていた。
「ごめんね、……僕の父が君の、家族を殺し、たんだ」
だからせめて、その代わりに少しでも守れたらと思っていた。
だって君は、本当に小さな子供だったから。
徐々に途切れ途切れになっていくカミルの声に、叫び出したいほどの激情が募る。
泣き喚きたいのか、それともカミルに縋り付いて許しを乞いたいのか、全ての感情が後悔となって激しく私の中で渦を巻いていた。
しかしそれも、やがて空気が拔けるように静かに萎んでいった。膨れ上がった感情をぶつける先がどこにも無かった。
全て私が招いた事だ。こんな思いをするくらいなら、いっその事カミルが私を手に掛けてくれたほうが余程マシだったと思えた。
「──違う、違うんだカミル……」
気がつけば私は緩く首を横に振っていた。カミルの何の裏も打算も無い気持ちを真っ直ぐに受け止める事はどうしても出来なかった──どうしたって自分を許せなかった。
あまりのやるせなさに悄然と肩が落ちているのが自分でもわかる。そのくせ握り締めた両手は、爪が掌に食い込む程力が篭っていた。
「……ツァー、リ?」
戸惑いの声を上げるカミルに、せめてと思って震えを圧し殺して顔を上げ、目を合わせる。
「私の家族を殺したのは、私自身だ。カミルの父は濡れ衣を着せられて処刑された。……本当に、済まなかったと思っている」
カミルが瞠目するその様すら、目に焼き付けようと真っ直ぐに見据えた。身体が強張る。息が出来なくなる。
何と言われるか。
言ってしまってから、これも後悔した。
死を目前としたカミルに、どうしてこのような裏切りを告げる事が出来たのだろう。この罪悪感を吐露する事は単なる自己満足ではないのか。
自分の胸を抉りたくなる程の自己嫌悪が私の身の内を這い回る。
カミルは、静かに目を瞑ると、ゆっくりと一つ呼吸をした。
「──……なんだ、そうだったんだ」
果たして彼の声は、凪いで穏やかなままだった。
──それきりカミルは目を開けなかった。
震える足先を踏み出した。寝台から降りて、カミルの傍へと這うようにして寄った。
「カミル……?」
血濡れた頬に、既に乾いた血脂がこびりつく指先で恐る恐る触れる。驚くほど冷たい感触がってきて、思わず肩が小さく跳ねる。
「……動か、ないでって、…………仕方、無い、なぁ……ツァーリ、は」
ひどく億劫そうに、カミルは吐息のようにそう言った。
彼の手がのろのろと持ち上げられて、私の頭を自分の右肩へと抱え込んだ。体重を預けても良いのか不安で、支えの手を残しはしたが、私は素直にそれに従った。
今やすぐそこから聞こえる、森林狒狒が扉を叩く音は一つ一つに間隔が空いて大きく強いものとなっていた。
だが、どうしてかそれに恐怖は感じない。
それよりも、布越しに触れるカミルの身体が徐々に温度を無くしていくほうが余程恐ろしく思えた。
肩から少し頭をずらして、カミルの左胸のあたりまで下げる。
ゆっくりとした弱々しい心臓の音が辛うじて聞こえてきて、泣けるほどホッとした。
まだ生きている。
早くなる扉を叩く音を気にもせず、ただ少しずつ弱くなるその小さな音だけに聞き入っていた。
──やがてそれも聞こえなくなり、私の頭を抑えていた手がずるりと床に落ちていった。
扉を隔てたすぐ外側から醜い絶叫が劈いたのはそれから程なくしてからだった。
人の怒号が廊下の壁に乱反射して響く。その中に、エルグナードの声があるような気がした。