04 狼竜の子
屋敷の中庭や玄関前以外屋外へは出ない私の日々は、全く変わり映えの無いスケジュールを毎日繰り返している。
朝はゴールトン夫人に起こされ、身支度を整えた後朝の礼拝を行い、食堂で午前の食事。正午まではマレシャン夫人による諸授業を受けて、軽食を取り、晴れていれば中庭での運動を、天気が悪ければ読書を行って、日の落ち始めた頃に体を湯で拭って午後の食事を取り、最後に夜の礼拝を行って就寝。
貴族家の子女はこのように規則的な生活というものを乳母により徹底されるので、自由時間という概念は殆ど無い。
そろそろ狼竜騒ぎで落ち着かない屋敷の状態にも慣れてきた頃。
慌しく出入りする大人達などまるで無いもののように普段通りの生活を送っていた私とゴールトン夫人であったが、とある出来事によってそのルーティーンを根本から変えねばならなくなった。テレジア伯爵より直々に情操教育の教材を渡されたのである。
二の月の上弦となるその日、珍しく屋敷内が静まり返っていた。連日屋敷を騒がしていた大人達が狼竜の捕獲か、或いは退治を行うために出掛けていった為だ。
何事もなかったように行われるマレシャン夫人の講義を受け、いつも通り三人で軽食を摂っていた時だった。エントランスが俄かにざわめいて、食堂の扉が開け放たれた。そうして入ってきたテレジア伯爵が、食事が終わり次第中庭に来るようにとわざわざ直接私に声を掛けたのだ。
最初に思ったのは一体何事か、である。
テレジア伯爵が私に用があるというのも驚きだが、さらに驚いた事は使いのものでなく伯爵自身がそんな小間使いのような真似をしてまで私を呼んだという点だ。昨年の夜に初めて言葉を交わしてからというもの、何度か直接話す機会もあったが、片手で足りる回数である。そんな間柄だからこそ危急の事態でも起こったのかと慌てて軽食を詰め込んだ。行儀の悪さを承知で中庭へと走りもした。
なのに肝心の用件といえば、狼竜の子を飼育することになったという、何とも気の抜けそうなものだった。
今回領内に出没していた狼竜は雌の個体で、出産の為に都合の良い土地を探していたらしかった。
番となる雄は見当たらず、傷だらけであったということから、どうやら縄張り争いに負けて巣穴から追い出されて山を降りてきたのではないかと考えられた。伯爵達は村への出現パターンから狼竜の仮塒を探し当てて保護の為に向かったようだが、狼竜自体は出産に耐えられずに死んでしまったようで、四頭の子狼竜を残したらしい。
狼竜は知能の高い魔物で、成熟前からよく人に馴れさせれば騎獣等として使役できるという。
ここ二百年ほどは実例が無い為に単なる伝承だが、一応試しに、という事だった。父のせいで国内一治安の悪いこの領には、平定の為にテレジア伯爵が手配した軍事力が置かれている事もあって、訓練に失敗しても処分は容易いという考えもあるだろう。カルディア領では東の王領にある魔物の森や黒の山脈からは頻繁に雪蛇が出て、ただでさえ少ない家畜に被害が出ることがしばしばある。狼竜の主食は雪蛇であるからして、上手く慣れさせられれば領の為に使えるからとテレジア伯爵はその飼育を決めたようだ。私も異論は無い。
四頭の仔狼竜のうち、三頭は東にある王領の国境守護の砦、ユグフェナ城砦に送られたそうだ。残る一頭は中庭のベンチに腰掛けたテレジア伯爵に抱えられ、脱脂綿に含ませた犬の母乳を吸っている。比較的厳つい顔の老人である伯爵が、子犬にしか見えない子狼竜をそうして世話しているのはなかなかにシュールな光景で、中庭に飛び出した時には咄嗟になんと声を掛ければよいのか全くわからなかった。
思わずぽかんとした私に構いもせず、伯爵は事の顛末を簡単に説明し、それから何故私を呼んだのか、その理由をまったく端的に述べた。
「エリザ、お前がこの狼竜の主となる。毎日世話を行って、きちんと自分を馴れさせるように」
「わかりました」
この伯爵との会話時において、戸惑いが許されるのはだいたい二秒までである。今回は狼竜飼育の意図まで事前に明確にされたので、返事は即答となった。呆けた頭を勝手にはっきりさせる思考技術がいつの間にやら身についているのは、伊達に貴族の子供としての教育を受けている訳では無いことの何よりの証拠だろうか。
博識とセンスに定評のあるマルシャン夫人の助けを借りて、恐ろしくレア度の高いペットとなった仔狼竜にはラスィウォクという名をつける事にした。
ここユグフェナ地方でその昔信仰されていた古い太陽神の名だ。今では単なる廃れたお伽話の扱いで、話の中で太陽が名乗るときはこの名を名乗る。鼠がラスィウォクのためのチーズを齧って太陽が欠け、弱まった日差しに人々が困ってしまうという話なら、いつだかにゴールトン夫人から聞かされた覚えがある。
ゴールトン夫人の出身はアークシアの南南西、グリュンフェルド地方のあたりだったと思ったが、よくユグフェナのお伽話を知っていたものだ……。融通が利かないと取られてしまうほど真面目一辺倒のゴールトン夫人の事なので、わざわざ調べてくれた可能性もあるが。
ラスィウォクは本当に生まれたばかりの子狼竜だった。
狼竜の騒ぎが始まった時には上弦だった月が朔を迎えて三の月になる頃に、ラスィウォクが薄っすらと瞼を開くようになった。乳を欲しがって鼻を小さくひくつかせながら、ぎこちない動きで脱脂綿に擦り寄っていたのが、視力を得ると危なげなく鼻先を向けるようになり、世話係を分担する見習い兵士のカミルが随分と残念がる。
「あのたどたどしいのが可愛かったのに……」
「成長とはそういうものなのでは?」
「幼さとは愛らしさなんだよ、ツァーリ。ツァーリがちびのくせに可愛げが無いのは幼さが不相応に欠けてるせいだな……」
何故かは知らないが私のことをツァーリと呼ぶカミルは、一応私が子爵位を持つ立派な貴族である事を意識の彼方に追い遣ってそんな事を口走る。まったく失礼な奴だ。他人の目が無いところでは一切の非礼を許す、なんて言ったのがそもそもの間違いだったかもしれない。毎日顔を突き合わせての共同作業を行う相手であるだけに、一々畏まるのもお互いに面倒な事だと思ったのだが。
「幼いものが総じて愛らしさを持つのは他者の庇護欲を得るため、つまり一種の防御法であるという」
「ツァーリのそういうところ本当に可愛くない」
そうしてカミルが頭を抑えて嘆く真似事をするところまでがお決まりの流れというもので、中庭に面した廊下から下女のメアリの吹き出す音が聞こえてくる。この遣り取りが面白く感じられるようで、彼女は時たまこうして私とカミルの会話に聞き耳を立てては可笑しそうに笑っていた。
毎日の仕事の中で息抜き代わりにでもしてるのだろうか。別に受け狙いのつもりではないのだが、聞いていて面白いのであれば好きにしてくれと思う。
「手遊び唄の通りなら、ラスィウォクは次の望のあたりにはもうひとりで動けるようになってると思うよ」
「朔の生まれの狼竜が、望の夜には目を開けて、下弦の夜には走り遊んで、三月の夜には巣を出てく。ラスィウォクが生まれたのは前の望の日の前後だから、目を開けた時期は唄の内容と一致している」
「ずっと昔にこのへんでは狼竜を番犬にしていたという言い伝えがあるけど、案外本当だったりしてなぁ」
カミルが興味深そうにそう呟くのを、ラスィウォクの金色の瞳を見ながら聞いた。
あと十日もせずにこの小さな生き物がひとりでに動き回るようになる……前世でも赤ん坊とはペットにしろ人間にしろ縁の遠かった私としては、その成長を毎日見るのが楽しくもあり、日々失われていく幼い愛らしさに寂しくもあり。絶対に態度に出しはしないが、感じている事はカミルと変わらなかったりする。