44 ユグフェナ城砦防衛戦・2
アークシアとその周辺国では徴兵は身近な制度で、今まで鍬や鋤しか持ったことの無かった農民が戦時に戦場へと借り出されるのはよくある事だ。
実際、カルディア子領軍の者達は半農で、兵役でなく軍人として領軍に在籍するものでも毎年一季節は自分の生まれた村に帰って畑を耕すし、直轄地の小麦を育てるのも彼らだ。
だから、兵の半数以上が実戦を行っていないというのはそれほど珍しいことではないのかも知れない。
小さく頭を振って鎌首を擡げた不安と緊張を散じさせた。
前世が争い事とは無縁な生活をしていただけに、人と人が殺しあう戦場というものは今までどこか幻想じみて感じられていた。それが現実として目の前に広がるとやはり頭が付いていきませんでした、などというのは、現実への認識が甘かった事への言い訳にはなりはしない。
頬の内側をごく浅く噛んで、その痛みを自戒とする。痛覚を伴ったからか、気持ちの整理はいつもより早くついた。
しゃんと背筋を伸ばして馬の背に上がる。大人と変わらない目線を得ると、兵士達の頭の向こうに黒尽くめの騎士が見えた。
「カルディア子爵!」
私が居る辺りとは逆の部隊から順に城壁の門を潜って兵士が出て行く中、エルグナードが走り寄って来る。
「お気をつけて参られよ。クシャのご加護が賜れる事をお祈り申し上げる」
「そちらこそ。私などよりも余程危険でしょう」
何しろ彼は中央を行く。その上、開戦したときには真っ先に敵に突っ込んでいく役割を彼は持っている。危険度は段違いだ。
エルグナードは柔らかく笑んで、私の頭を髪が崩れない程度にぽんぽんと撫でた。
「私は大丈夫。自分も周りの者も、死の覚悟は出来ている。最も、こんな小競り合い程度の事で死ぬつもりは無いが」
一言も物を言えなくなって、ただ彼の顔を網膜に焼き付けんとばかりに凝視するしかなかった。
胸を打たれる、というのとは少し違うが、『刺さる』一言ではあった。
「……お気をつけて」
やっとの事でそれだけを絞りだすと、エルグナードは一瞬だけ笑みを深めて去っていった。
兵の障壁外への布陣は迅速に行われた。デンゼル側に気付かれると事だ、と騎士団長を務めるエインシュバルク王領伯は言う。戦場では情報数が多い者の方が有利だ。相手側に情報を与えないように動くのは基本的な事、らしい。
「全軍、前進ッ!」
ヴォルマルフの号令により、太鼓がドンと大きく叩かれ、それからリズムを刻み始める。それに合わせて、兵が前へと動く。
兵に囲まれて、場違いながらその行進に感心した。
誕生祝の行進の時、マーチングバンドが欲しいと何度か思ったが、やはり太鼓一つあるだけで兵士の動きの統一感が飛躍的に上昇する。領軍の兵達もここに来てからの訓練で身に着けたのか、リズムに狂いは無い。地形の関係で右翼が突出する形となったが、200メートル程の距離しか開いていないので特に問は無いのだろう。
やがて地平から徐々にデンゼル軍が張った天幕が見えてくる。その前に居並ぶ、七百の人が黒く密集する姿も。
「……?」
だが近づくにつれて、どうしてか違和感を感じる。その些細な感覚を放っておけずに目を細めると、剣呑な表情が表に出ていたのか、隣に立つギュンターがどうした、と聞いてきた。
「わからないが、……敵軍の様子がおかしい気がする。気のせいかも知れないが」
「あぁ?……ちっと待て」
私の言葉に胡乱気にしながら敵陣を睨んだギュンターが、暫く黙ったかと思うと、おい、と焦りの声を上げた。
「敵陣に馬が居ねぇ。それに、兵の殆どがおかしな具合に頭をフラフラさせてやがる」
頭をフラフラ、と聞いて、私の脳裏を過ぎったのは前世で畑に突っ立てられた案山子の姿だった。風が吹くと支えの棒に対して頭が重く、フラフラするあの様子だ。後から思い出すと、よくそこで都合よくそれが思い浮かんだものだと感心する。
「……囮かもしれない」
「何だとぉ?」
「誰か、領軍の中で一番足の速いものは誰だ!」
振り返って怒鳴ると、後ろに付いて来る領軍の兵士達は驚きで足を止めた。硬直した兵士達に、しまった、と顔を歪めるのと同時に、列の中からぴょこんと一本の細い手が上げられる。
「はいっ!僕、足の速さには自信と定評があります!」
そう言いながら他の兵を押しのけて出て来たのは、カルディア領からユグフェナ城砦まで私の馬の手綱引きの役目をしていた見習い兵士、パウロだった。
「よし、ではお前に命じる。中央の騎士団第一小隊へ行って、それを率いている隊長のエルグナード様に「敵陣がおかしい。馬もおらず、敵兵は張りぼて人形に見える」と伝えてくれ」
「ええっ!騎士様に僕がですかぁ!」
目を丸くしてひぇっと声を上げたパウロだったが、緊急事態である事は分かったのか、そのまま斜め後ろへと駆け出して行った。その後ろ姿が遠ざかるのは本当に速く、自信と定評があるというのは誇張でも嘘でもないらしいと妙に感心してしまう。
「どうされましたか、カルディア子爵」
急に行軍の止まったカルディア子領軍を怪訝に思ったのか、パランケス隊の副隊長が馬を歩かせてやって来た。白い口髭と顎髭を蓄えた年配の兵士で、体付きは屈強と言うよりはふくよかといった方がしっくりきそう、という男である。
「デンゼル軍の様子がおかしい、囮の可能性がある」
馬が居ない、兵がふらふらと頭を揺らしているのが張りぼて人形が風に揺れるのに似ている。副隊長は顎髭を扱きながらふむふむと聞いていたが、今聞いた事を隊長へ報告してほしい、と私が締め括るなり、くすくすと笑い出した。
「なッ……」
緊迫した場にそぐわないその男の唐突な笑いに、ギュンターが絶句した。副隊長の男は構わずに笑っている。
「カルディア子爵もやはり可愛らしいお子ですなあ。私の孫と同じような事をなさる」
「は?」
唐突に副隊長は訳の分からないことを言い出した。
思わず顔を歪めるが、男は楽しげな笑みを浮かべたままギュンターに顔を向けて話を続ける。
「初めての大人ばかりの場に混ざると、子供というものは目立ちたいと思って大それた事を言ったりするものです。あまり本気で取り合いませぬよう」
なんだこいつ。
そのあまりの物言いといい態度といい、私とギュンターを愕然とさせるには十分だった。