03 早朝の盗み聞き
五歳の誕生日を迎えて数日が過ぎた。
まだ薄暗さの残る初春の早朝。
ゴールトン夫人もまだ起こしには来ないような時間に、ふと目が覚めたのは何かの予感だったのかもしれない。屋敷の中が俄かにざわめき立っており、大人達の低く喋りあう声が細々と響いてくる。
夜着から普段着へとさっさと着替え、そっと部屋から抜け出した。廊下はぼんやりと暗く滲んでいて、肌寒い。
着込んだチュニックとダルマティカと呼ばれる布地の多いワンピースのような服は、この国……正確にはこの一帯での普段着なのだが、これが無駄に重たい。布の引き摺る音が立たないようにと裾を抱えるだけでも一苦労だ。
本来ならばゴールトン夫人が迎えに来るまでは部屋で大人しくしていなければならないのだが、これだけ屋敷内が騒がしいのだ。邪魔にならない程度に様子を見に行っても咎められる事はないだろう。
黄金丘の館などと呼ばれるこの屋敷は、カルディア家の一時の豪遊振りを考えると似つかわしくないほどに小ぢんまりとしている。名の由来は直轄地である館の周辺を取り巻く小麦畑だろう。この領では、直轄地では単価の高い小麦を、領民の畑では黒麦を主に育てている。三年前までは畑の悉くが荒地に成り掛けているという有様だったが。
アークシアにおいては領主の住居は普通、小城の規模となるらしいが、カルディア領は小さく貧しいまま数代を経ているため、城など建てている余裕は無かったようだ。
父が建て直さないままにしておいたのは……派手な工事で注目を集めてしまう事を危惧したのだろうか。その癖、牢は大幅に増やしているのだからつくづく最低な人間である。自分の行いが領民の反感を煽る事を知っていて押さえつける事しか考えていなかったのだ。
そういった理由から貴族の住居としては最小の部類に入る黄金丘の館は、二、三階を寝室等の居住空間、一階を応接間や食堂といった応対用の空間として分けられている。
屋敷二階のほぼ最奥に位置する私の寝室まで、決して薄くない床を隔てていても聞こえてくる階下の騒ぎに、おっかなびっくりになりつつも階段のあたりまで音を潜めて移動した。何しろこんな状況は私が家族を殺してからというもの、初めての事なのだ。
柱の陰に身を隠し、階段の手摺りの柵からそっと眼下のエントランスを窺う。玄関の両扉は開け放たれており、忙しなく何人もの大人達が出入りを繰り返していた。その殆どが武装をしている男達で、革を中心とした統一感の無い装備を纏うのがおそらくカルディア子爵領軍だろう。金属を用いた鎧を着用した兵達は、テレジア伯爵が自前で用意したのか、或いは貴族院を通して派遣されたのか……。
鎖帷子を他領から入ってきたその兵たちがごく普通に纏っている事を考えると、もしかするとこの領内の技術水準は百年単位で遅れているのかもしれない。貴族院によって領主達の孤立が防がれ、国内水準の一定化がそこそこ図られているアークシアにおいてはそれは異常な事だ。改めてぞっとする。
現在この屋敷には私とテレジア伯爵を含めて十一人の人間が住んでいる。私の乳母であるゴールトン夫人、家庭教師であるマレシャン夫人、伯爵の秘書であるベルワイエ、コックのナタンとパン焼きのオルガ、メイドのイサドラとフェーベ、庭師のボレスワフ、下女のメアリ。
この時間帯まで寝室にいても問題無いのは私とゴールトン夫人、マレシャン夫人の三人だけで、他は全員がもう仕事を始めている筈だ。
それ故に、応接間からは誰憚る事の無い怒声が微かに漏れ聞こえてくる。
その内容が知りたくて自室から抜け出してきたというのに、不明瞭なそれは意識を集中させてもその意味を拾う事は出来ない。
諦めて戻った方がいいだろうか。そろそろゴールトン夫人が私を起こすために部屋に来る時間になる。窓の外では薄らと雲の掛かった暗い空に朱が濃く射し込み始めていた。
後ろ髪の引かれる思いを感じながら、のろのろと踵を返した。
応接間に誰かが慌てて駆け込んだのは、丁度そのタイミングだった。
扉を締めるのがもどかしく感じる程緊急だったのか、或いはその必要性を感じなかったのか。
隔てるものの無くなった応接間から、それ程声量がある訳でもないのに朗々と響く声は、ごく簡単に私の耳に届いた。
「報告致します。シリル村に駐在するアジール・イリシェッツより、狼竜発見の知らせが入りました」
──狼竜?場違いにすら感じられるその響きに、思わず踏み出した足が止まる。
お伽話に出て来るモンスターの名前が、これほど緊迫した中に。只管に奇妙でしかない取り合わせに、部屋に戻ろうとしていた事も忘れて思わず首を捻った。
寝物語にゴールトン夫人が語るお伽話の中には、英雄譚に分類される幾つかが存在する。世界が変わろうと勧善懲悪のモンスター退治がポピュラーなストーリーの一つであることは変わらないのかもしれない。
例えば、アール・クシャ教における大神子クシャ・フェマの付き人ウェツラーが邪悪で巨大な狼竜を退治して救い出した娘を妻に迎えるエピソードなどはアークシアの全土で知られている。最もこれは、お伽話というよりも神話の一節なのだが……。他にも古代のさる賢者が何千年も生きた老狼竜と知恵比べをするような話があるが、これも頻繁に語られるお伽話の一つだ。
それによれば、狼竜とは鱗のある巨大な狼のことで、尾は蛇、肩には蝙蝠に似た形の翼があって空を飛ぶという。
──単なる架空の合成獣の一種だと考えていたのだが、どうもそうではなかったようだ。
狼竜は実在する。そういえばこの世界は単なる異世界ではなくファンタジーだった、と、今更ながらに思い出した。よくよくゲームの情報を思い出せば、何度か『魔物』という単語が登場していた。
尤も、普通黒の山脈、それもバンディシア大高原に面した奥地で雪蛇を食べて生きているものだから、お目に掛かる事などなかなか無い事らしいのだが。
「それにしても、突然狼竜が本当にいるかだなんて。一体どうなさいました?」
「……何となくです」
朝から矢継ぎ早に狼竜に関する質問を受けたゴールトン夫人が不思議そうな顔でそう聞き返してくるのに、どうにも上手い言い訳が思い浮かばないまま曖昧にぼかした。
まさか部屋を抜け出して早朝徘徊していた事実など告げるわけにもいかないだろう。
昼過ぎになっても屋敷は騒がしいままだった。
テレジア伯爵は私に対し、狼竜について特に隠すつもりも無いらしい。応接間は立て込んでいるため近づかないように、とゴールトン夫人を通して指示してきた伯爵ではあったが、食堂にいるときにはごく普通に応接間でやり取りされる話に聞き耳を立てる事が出来た。
見つけられた狼竜はかなり大きな個体が一匹。聞く話によれば狼竜の生態は普通の狼に近く、通常は群れで行動する。という事はあの狼竜は村を出た一匹狼という事になる。
その狼竜が黒の山脈から態々人里に降りてきたのは、一体何の為だろうか。山に新たな縄張りを築く事が出来なかった、という訳でもないだろう。大きな個体というからには、縄張り争いでそう簡単に負けて逃げ出すとは思えない。
「エリザ様、今はお食事中ですよ!」
「……失礼致しました」
あまりにも考えるに意識を集中させ過ぎた。疎かになった食事にゴールトン夫人から鋭い叱責が飛んできて、慌てて私は狼竜について考えるのを止めたのであった。