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31 真夏の日

 人を括りつけた木柱の周りの藁が黒い煙を上げるのを、目を逸らす事も出来ずに見ていた。


 きつい陽光に照り付けられる夏の日。

 高温に揺らめく藁の上で、半分死にかけて力なく呻いていた人々が、悲鳴と絶叫を交互に喉から迸らせる。


 それらを散々に蹴り転がして木柱に縛り上げた者達が、その光景をぐるりと囲んで心底楽しそうに見物している。

 彼らは頃合を見て水を掛けたり油を掛けたりしながら、より犠牲者達を苦しませる遊びに熱中しているようだった。


 じりじりと徐々に黒んでいく人だった物の悲鳴が、途中から喘息へと変わっていく。

 周囲には、いつの間にか酷く嫌な臭いが漂っていた。


 熱気と悪臭に宛てられて思わず嘔吐(えず)くのと同時に、すぐ隣から哄笑が響き渡る。その声に釣られるように場違いな笑い声は広まり、耳障りなそれに私の脳がぐらぐらと掻き混ぜれるような感覚がした。


 それ以上は耐え切れなくて、目と耳を塞いで蹲ってしまいたいのに、私を抱き上げる腕が何もかもを咎める。

 離して、と訴える声がどうしても出せず、必死になって身を捻っても、大人の腕は私の小さな身体を簡単に押さえ込む。


 眩暈が酷い。頭が割れるように痛い。

 暑さ、熱気、悪臭、どれもが息を詰まらせる。

 吐き気を堪えるのも限界で、喉のひくつきと共に胃がひっくり返るような感覚がして、逆流してきたものを私はそのまま口の外へと吐き出した。

 人の焼けた臭いの中にツンと鼻につく刺激臭が混じる。


 ぶちまけた吐瀉物に半ば呆然としながら、私はゆっくりと顔を上げた。

 私を抱き上げている腕の主を見上げようとしたのだと思う。殆ど反射的にそんな行動をしていたので、何故そうしたかはっきりしない。

 ただ、見上げた先にあった存在に、そんな事をしなければよかったと私は心底後悔した。


 艶めく長い黒髪を美しく結い、血の様に赤い瞳の男が、ぞっとするほど恍惚とした笑顔で私の顔を覗き込んでいた。


 それが自分の父親だと気がついたとき、私は寝台の上で目を覚ました。




 熱気の篭って蒸し暑い寝台の中、頬を伝って落ちてくる汗を乱暴に拭う。

 悪夢を見たせいか、指先は酷く冷えていて、その上震えていた。

 天蓋から垂れるカーテンを開きもせずに這い出る。清涼な空気を求めてのことだったが、寝台の外でも熱気は変わらない。辟易するほど息苦しい蒸し暑さだ。窓を開けて漸くさわやかな空気が吹き込んでくる。


 カルディア領は今年、五年ぶりの酷暑となった夏を迎えていた。


 西側では熱中症で倒れる領民が増え、発足した自警団が休む暇なくその対処や予防に奔走している。部屋に篭っている事の多い私やテレジア伯爵も、屋敷の者達の管理下に置かれ、水分補給や休憩にそれなりに時間を割かねばならなくなった。

 東側の開拓地からは徐々に兵士が戻り始めている。先日から二十人単位で難民の移動を開始した為だ。あちらは水場が多い為かこちら側より過ごしやすそうで、戻った兵から移動の希望がちらほらと聞こえてくる。

 カミルが黄金丘の館から居なくなって、早くも二月が経とうとしていた。


 汗を吸って濡れた夜着を脱ぎ捨て、薄手のチュニックとダルマティカを被る。

 オルテンシオ夫人は私の朝食の配膳用意を手伝っている筈なので、朝の支度には来ない。私が五歳を過ぎたので、寝過ごさなければ起こしに来る事も無い。

 べたつく首元が気持ち悪くて、部屋を出てメイドを探しながら食堂へ向かう。黄金丘の館にはイサドラとフェーべの二人しかメイドが居ない為、朝の忙しい時間に見つけるのは難しい。今日は運が良いのか、丁度屋敷中から洗濯物を回収しているイサドラと行き会えた。


「おはようございます、お嬢様」


「おはよう、イサドラ。すまないが、私の部屋の寝台も頼む」


 あの夜着は洗濯してもらわなければもう着たくないし、シーツも汗を吸っている。そのまま寝るのは嫌だし、夢見が悪くなりそうだ。ただでさえこの気温の高さに魘されて寝つきが悪いのだから、少しでも寝床の居心地を良くしたいと思うのは当たり前の事だろう。

 館の他の住人達も同じなのか、イサドラはこの暑さですものね、と呟いて、しっかりと頷く。


「分かりました。他に何か御用はございますか?」


「朝食の後に身体を拭きたい。部屋に用意をしておいてくれ」


 イサドラはもう一度頷いて、一礼すると忙しいのか早足で廊下の向こうに去って行った。洗濯物を引き取るのはメイドの仕事だが、洗濯自体は下女の仕事だ。それほどゆっくり食事に時間を掛けずとも、部屋には盥と布が用意されているだろう。


 朝食の席には珍しくテレジア伯爵とマレシャン夫人、それとクラウディアが揃った。テレジア伯爵は普段もっと早くに食事を取るし、マレシャン夫人とクラウディアはもう少し遅い時間に朝食を食べる。エリーゼだけは部屋での食事となるが、彼女以外の食堂の席に着くことができる全員が揃ったのはすごい偶然だ。


 ……そういえば、ここ暫くエリーゼの部屋へ顔を出していない。最近のエリーゼは少し体調が良いらしく、日中に中庭に出ている事が多いため、部屋まで見舞う必要が無かったのだ。

 今日は部屋に訪ねてみようか。




 イサドラが用意していてくれた布を絞って身体を拭い、エリーゼの部屋へ向かうと、丁度マーヤが早足で出て来る所だった。


「あら、エリザ様」


「どこへいく、マーヤ。エリーゼ殿から離れるなんて珍しいな」


 マーヤはエリーゼの専属としてこの屋敷にやって来たメイドなので、殆どの時間をエリーゼと共に過ごしている。彼女が日中からエリーゼを置いて何処かへ行くのは本当に珍しい事だ。今日は珍しい事が良く起こる。


「ええ、伯爵からお呼びが掛かったのです」


「伯爵から……そうか。暫くエリーゼ殿は見ておこう」


「ありがとう存じます。申し訳ございませんが、エリーゼ様をよろしくお願いします」


 マーヤはほんの少しほっとしたような表情で、また足早に去って行った。エリーゼは咳の発作持ちなので、なるべく目を離したくないのだろう。

 こつこつとエリーゼの部屋の扉を叩くと、どうぞ、とエリーゼの声が返ってくる。ここへ来た当初と比べると、かなり元気になっただろう。


「エリーゼ殿、失礼致します」


「エリザ様!いらっしゃいませ」


 エリーゼはいつもと違って寝台ではなく窓際に置かれた椅子に腰掛けていた。ぱっと顔を輝かせて立ち上がろうとするのを、そのままでいいと手で制す。


「今日は調子が良さそうだね」


「……はい、お陰様でとても元気になりました」


 嬉しそうに微笑む彼女に一つ頷いて、何をしているのかと近づく。私が隣に立つとエリーゼはちょっと照れたようにはにかんで、外を眺めていました、と小さな声で言った。


「外?」


「はい。ここからだと中庭と、その向こうの池が見えるのです」


 ここから眺めた景色の中に、元気になったら入っていくのだ、と彼女は笑う。

 そう、と相槌を打ちながら何気なく窓の外に視線を向けると、エリーゼの言うとおり中庭と、その向こうに池が見えた。


 私が毒芹を採取した場所だ。屋敷の庭師の仕事の管轄ではない場所なので、もしかするとまだ生えているかもしれない。貯水池なので兵が手を入れてはいると思うが、彼等は毒草の駆除はしないからだ。


 水を囲むように鮮やかな植物が囲んでいて、遠くから眺める分にはそれなりに華やかに見える。

 その陰になる所にそっと佇む小さな墓を見つけて、私は目を細めた。ここからだとあの墓も見えるのか。


「……池までは行かないように」


「勿論、心得ております。その前にもっと元気にならないと、中庭に降りることも出来ません」


 それに水辺は危険ですものねと眉を下げるエリーゼは、それでも憧れの色を浮かべた瞳の中に池の周囲を映していた。

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