36 邁往
「……大変申し訳ありません。会場襲撃には至っていないという処理になったようです」
臨時の護衛として控えていた近衛騎士の報告に、私は小さく頷いて返す。
まあ、想定の通りであった。
襲撃者はエミリアどころか、護衛の私にすら触れてもいない。死人も無く、重症者も無い。
警備計画が漏れていたのは警備側の問題であり、会場に詰めている運営には関係のない話だ。襲撃を未然に防いだとなれば尚更、中止や延期の判断を下す材料は無い。
「エミリア様」
「──は、い。私は平気です」
未だ顔色の悪いエミリアは、それでも気丈に言い切った。
残されたほんの僅かな時間では事情を説明する時間もなく、それでも混乱と恐怖を胸のうちに収めてくれたようだった。
極度の緊張状態となれば、喉が強張って声がでない事もある。
エミリアも多少の違和感があるのか、会場へと戻る直前まで、湯で喉を温め、何度も低い音で発声を試す。
壁一枚を隔てた会場でステファニアの課題発表が始まっても、エミリアは一切動じなかった。
……途中まで作曲していた内容と同じような音運びが聞こえてきたが、喉の調整に集中しているエミリアはステファニアの曲に耳を傾ける素振りすらない。
私の方もラトカとティーラに急いで衣装の崩れた部分を整えられて、曲が終わる頃にはどうにか準備を終えることができた。
「エミリア様、お時間です」
声を掛けるとエミリアは黙ってこくりと頷き、会場へと続く扉をひたと見据えた。
──その瞳の、透き通るような静けさと言ったらない。
そういえば、腹を決めた時のエミリアの顔をきっかけに惚れ込んだ攻略対象が多かったな、などと、今更になって思い出す。
この表情をしたエミリアの手を引けるのは、なるほど、栄誉な事かもしれないな。
エミリアをエスコートして舞台に上がる。
歓声。
予定ではエミリアは会場に向けて微笑む筈だったが、決然とした今の表情はどこか静謐で、神秘的でさえある。
それがむしろ衣装の雰囲気に絶妙に合っていて、エミリアという娘の存在感をこの上なく際立たせる。
舞台の上では私もその、引き立て役の一つだ。
「……信じてますよ。いつも通りにできると」
エスコートの終わりに、面映くなりそうな励ましを小声で吐く。
こんな台詞一つで、エミリアの状態をより良くできるなら幾らでも吐いてやる。
「いつも以上にやってみせます」
エミリアの返事には無駄な気合いすらなく、随分と心強い。
彼女の手の甲に額突いて、その手を離した。
──エミリアが作った曲は、それほどテンポの速いものではない。
最初は静かなトリルから始まり、広めのアルペジオを使ったゆっくりとした旋律へと接続される前奏は、緊張感を孕みつつも穏やかで、寂しくも美しい。
赤の山脈から東方へ流れ出て、パーミグランの海まで続く、大陸を南北に分かつカロー川の調べだ。
古にはクシャ・フェマが身を清め、はるか昔にはアークシア・アルトラス・リンダールと南方の国家を運河として繋いだという大河。
何箇所もの崩れた関所の残骸と、各国の治水工事による水量の低下により船の通らなくなったその川は、書物に記されるかつての栄華は今や見る影も無い。
レイチェルが連符を一音ごとに和音に変えた挙句、分散和音で弾くように編曲したりしなければ、私の手にも穏やかな曲だっただろうに。
ハープのように流麗な音の連なりをどうにか抑えていく。
ペダルを使って音を響かせているので、一音でも外せばこの曲は終わりだ。
その難関を越えれば、歌が始まり普通の和音へと少し落ち着く。
伴奏へそっと乗せられるようなエミリアの歌い出しは高く、会場全体へと伸びやかに広がる。
カロー川沿いの街道を、西へ西へと辿っていくのが、詩の内容だ。
『シャナクの邁往』と呼ばれる幼い頃の神子クシャ・フェマを守って西へと逃れるシャナクの説話をモチーフとしたそれは、内情としては、アークシアに身柄を渡されたエミリアの、来た道を二度と引き返せない旅路の歌だ。
中盤は旅路の行末の不安と、手放すばかりの心情による暗さが入り、私の伴奏にも低音でのオクターブ奏法が右手に残ったアルペジオに混じる。
ともすれば心細くなりそうな、柔らかな高音続きの独唱歌。
ただ一つ、シャナクに最後まで寄り添う馬のような心情で、私はそれに伴奏を添える。
やがて、シャナクは安息の地へと辿り着く。
低音も拾いつつの広く穏やかなアルペジオに左手が再び戻り、和音を進行する右手の上を、左手を交差してキラキラとした高音を混じらせる終盤。
──ああ、ここだけは。エミリアにとっては、まだ未来の話だ。
くそ。テンポが遅いのが逆につらい。
音数が多く忙しいのに、ゆったりとした曲調のせいで少しの粗でも目立って聞こえる。
丁寧に丁寧に、音の粒を揃えて一音づつ積み重ねていく。
エミリアの繊細な声が風に揺れる麦穂のように波打ち、まるで空気に溶け込むみたいな余韻を残して静まっていく。
後奏は短い。
一気に音数を減らし、エミリアの余韻を損なわないよう、あくまでも添え物として曲の終幕を引き受ける。
──最後の鍵盤から指を離した途端、どっと息の苦しさを感じて慌てて深く呼吸をした。
最後の方、集中しすぎて息をするのも忘れていたらしい。
気取られないように静かに呼吸を整えながら、エミリアと共に舞台を降りる。
途端、会場の空気が破裂したかと思うほどの拍手に包まれた。
エミリアが少し手を引いて、はにかむような笑顔を浮かべて何かを言ったが、私の地獄耳でもこの万雷の歓声と拍手の中では全く声が拾えない。
言っている事は分からないが……まあ、エミリアのことだ。
感謝だとか、喜びだとか、そんな事を言っているのだろう。
何を言っても聞こえないので、私もそれに微笑みを返すしかなかった。
ついでに、髪飾りを直すふりをして、ラトカが煩い例の頭撫でとやらもしてやる。いつも以上にやってみせた、エミリアの有言実行ぶりへの敬意と労いを私なりに表したつもりだったが……。
横から伸びてきた手が、私の手首を掴んで払う。
張り詰めたような顔のグレイスが、私に向けてはっきりと、エスコートを明け渡せと唇を動かした。




