35 怒涛の攻防
メルキオールはエミリアを一瞥することなく、悍ましい笑みを私に向けたまま言い放った。
つまり、エミリアを私が部屋に押し込めろと。
「あッ、おい!」
同時に、演奏者の装いの男が慌てたように声を上げる。見れば、ティーラの首から血が滲んでいた。
ヒッ、とエミリアが息を引き攣らせる。
男は瞬時にナイフを引き、同時に拘束の腕を首へと移動させ、ギリギリと締め上げた。
ティーラの顔が苦痛に歪むが、私は内心ホッとする。これでティーラは身動きが取れない。
そう簡単に、自害を即断されては堪ったものではない。それに、おかげで冷静になれた。
「……エミリア様。騎士団が来るまで場を引き伸ばしたい。抵抗を装い、黙って首を横に振っていただけますか」
小さく耳打ちすると、エミリアは青ざめた顔で私を見上げる。
緊迫した状況に血の気が引きつつも、状況が分からず困惑している事を表情で伝えようとしていた。メルキオールと私の関係性に戸惑っているのだろう。
「血縁ですが、敵です」
端的に伝えると、ちら、と迷ったようにティーラに視線が走る。それを遮るように肩に手を置けば、エミリアはやっとぎこちなく首を横に振った。
「護衛騎士の言うことは素直に聞くべきだ、大公女殿下。冷酷と名高い伯爵に手酷く扱われたくはないだろう?猶予は無いぞ、お互いにな」
昏い愉悦を滲ませて、メルキオールが嗤う。
「黙れ」
「兄に向かって、随分な言い草だ」
「貴様は私の兄などではない。カルディア家は私以外、生き残りはない」
「では、誰が見ても鏡写しほどに似たの私とお前の姿を、どう説明する?」
「家系図に名がないと言うことは、あって庶子か、他人の空似だ。仮に庶子だったとて、胎も種も定かでないような生まれにまで拘ってられるか」
怒りを装ってみせながら何か物を言えば、メルキオールが実に愉しげに言い返すのを、冴えた頭で受け止める。
この場ではエミリアが狙いのようだが、こいつの標的はあくまで私だ。私の些細な反応すら逃さないと言わんばかりに煽る態度が、その証左。
小休止の間、騎士団は会場の一斉見回りをしている。この廊下は小休止の始めと終わりに巡回される予定だ。
控室の見回りはされない。こちら側の廊下は控え室に行く巫娘とその関係者以外に解放されておらず、別の誰かが通る事もない。
「おい、目的を忘れるな!お前達の問答はどうでもいい。さっさと大公女殿下をエスコートしてもらおうか。騎士の戻りを待っても無駄だぞ!」
痺れを切らした演奏者姿の男が喚く。
やはり、そこまでの情報は向こうにも抜けているか。でなければ、これほど綱渡りの作戦にはならない筈だ。
だが────何事にも、例外はある。
例えば、自分の娘の失態を知った騎士団長が、謝罪の為に人目を忍んで会いにくるとか。
控え室より奥にある扉──会場ではなく、裏口からの通路を接続する扉が音も無く開くのを、視界の端で捉えた。
そろりと廊下に温和な相貌を覗かせたシュツェロイエ侯爵は、瞬時に状況を把握したらしい。
剣を鞘から抜きながら、下降する鷲のような鋭敏さで侯爵が廊下へと踏み込む。進路は人質をとっている演奏者姿の男だ。
「アスラン、メルキオールを──」
「いいや、侍女の方を!」
言うが早いか、シュツェロイエ侯は咄嗟に振り返ろうとした男を当身で弾き飛ばすと、その反動でメルキオールに切り掛かった。
ギャッと悲鳴を上げた男が控えの間の扉に叩きつけられる寸前、咄嗟にアスランが男の持つナイフを外側へ弾き、ティーラを引き剥がして受け止める。
剣戟の音は瞬きの間に二度。侯爵の振るった剣は、メルキオールの籠手で防がれていた。
戦況は随分こちらの有利に傾いたが、まだティーラを取り戻しただけだ。体勢を崩した敵二人に始末をつけ、ラトカが囚われているであろう控えの間の中の制圧を急がねばならない。
「邪魔が入ったか……」
「邪魔者は貴様らだ!神聖な巫娘選定の場に穢らわしい謀を持ち込むなど!」
「流石に分が悪い。今日のところはこれで退くと──」
その時、ガン、と音を立てて控え室の扉が跳ね開いた。
転がり出てきたのは侍女の衣を乱したラトカだ。一瞬遅れて、追いかけてきた男の手が伸ばされる。
「待てこのクソガキがあ……ッ!?」
そこまでだった。
ラトカは寸でのところで敏捷く身を躱し、男の手は宙に翻ったベールを掴み、アスランがその腕を切りつけ、侯爵の剣先が男の動きを制止させた。
まずい──唐突な展開に、武器を持つ2人が同時に動いてしまった。
シュツェロイエ候の視線が逸れたその一瞬の隙。
メルキオールが好期とばかりに身を翻そうとし──ふと、凍りついたように動かなくなった。
「……ライラ?」
はく、と戦慄いた唇が、震えた声で女の名を呼ぶ。
その視線の先では、ヴェールと化粧の剥げ落ちたラトカがメルキオールを睨み上げている。紅茶色の瞳に、じわじわと困惑の色が浮かぶのが見えた。
「エリーゼ!」
叩きつけるように名を呼べば、弾かれたようにラトカは動く。ほんの少しぎこちなく──脇腹に入るはずだった強烈な蹴打が、僅かに上にブレる。メルキオールがすんでのところで腕を挟み込み、肋を守った。
そうして、蹴り込まれたその勢いのまま、脱兎の如くに逃げ出した。
「待て!!」
シュツェロイエ侯は咄嗟に叫んだが、追うことはなかった。こちらの様子を見て、警備を優先させてくれたのだろう。一瞬の葛藤の後、彼は深く、息を吐いた。




