第二百五十話 いつかの日々・下
人が何を考えているのか。人々はいつもそれを考えているが、そんなもの、分からない方がいい。
夏の日照りに肌を刺されるかのような、ひどい不快感だった。それでも体面を保つためには、それを外に出すわけにはいかない。
学習院の初日。新入生のための夜会の入り口で、私は針の筵のような人々の視線を味わっている。
人の心を読めてしまう、奇妙な力を持つ私には、苦痛なことこの上ない。
「ジーク。待たせたな」
なるべく見ないように、と下げていた視線に、白い靴の爪先が割り込んだ。
「遅いぞ、アーマデア」
苛立ち紛れに苦情を言って、待ち人に向けて顔を上げ──後悔する。
畜生。読まれた。
「ふふ。……そう、少し遅れただけで顔を真っ赤にして怒るな。夜会だぞ?」
違う!違う!違う!!そんな事で怒っている訳ではない事は、この女は百も承知の癖に!
それまでの苛立ちも忘れ、羞恥で上気した顔を思わず手のひらで覆う。
くそ。こんなに綺麗だなんて、聞いてないぞ──。
初めて夜会用のドレスを着た彼女は、白百合の露を集めた宝石のような美しさをしている。だが、もう何年も軽口を叩きあうような仲だった彼女に、そういう想いを悟られるのはあまりに恥ずかしい。
「……いや。慣れない衣装で落ち着かなかっただけだ」
咳払いをして、周囲の目を誤魔化す言葉を吐く。
辺りから伝わってくる気配は、それまで一人で立っていたときのものよりほんの少しだけ柔らかいものになっている。不躾な好奇心はまだ丸出しでそこにあるものの、侮辱的な軽蔑や嘲笑は潜められたようだった。
兄の婚約者を奪った、などと不名誉な噂が立っているうちは、この状態が続くのだろう。そう思うと憂鬱にもなる。
「……行こう。手を、アーマデア」
頭を振って気分を切り替える。帰るわけにもいかない。挨拶して回るべき相手がいるのだ。
この春から己の婚約者となった幼馴染は、嬉しそうにエスコートを受けた。
相変わらず豪胆なことだ。自分以上に見えているはずなのに。
アーマデアは私のエスコートの手を取ると、嬉しそうに薄く微笑んだ。
そうして自然に私の方に身を寄せると、小さく囁く。
「大丈夫。事実じゃないんだ、いずれ噂は消えるさ」
「ああ、分かっている」
苦痛だが、嫌なわけではないと伝えたくて、私は会場へと足を踏み出した。
◆
アーマデアが私の婚約者になったのは丁度一年ほど前の事だ。
兄上の、学習院からの帰還の日。一年ぶりの次期当主を迎え入れるのに屋敷中が浮足立っていたあの日。
兄上の帰宅の知らせと共に、父上の呼び出しを受けて応接間へ行くと、アーマデアと父上、兄上が居て。
父上が静かに婚約について説明を始める姿は、まだ脳裏にまざまざと焼き付いている。兄上は一言も仰ることはなく、アーマデアもまた、視線を伏せたまま静謐に微笑んでいた。
おそらくは、心を読むあの力のための変更だった。
父上が説明した変更理由は、アーマデアと私の事情を薄らと引き合いに出したものだった。
婚約した家同士の交流で、より相性の良さそうな相手と思えたので変更する、という要約ではあったが、結局はそこだ。
──父上の心の声は穏やかで、兄上の心は、分からなかった。
聞こえてくるものも見えるものもあったが、あまりに複雑な思いをしているのか、印字を失敗した本の頁のように重なって黒くなった感情だけがそこにあった。
そして、アーマデアの心は、いつも通りに何も見えない。
人の心など見えない方がいいと、日頃から抱いていた考えが重くのしかかった気がした。
見えなければ、聞こえなければ、この婚約変更はありえなかったのだ。
言葉を失う私に、アーマデアは「よろしく頼む」といつも通り、真意の見えぬ泰然とした声で言う。
彼女の方は私の心を見通せるという事が、これほど理不尽に感じた瞬間は、後にも先にもこれだけだった。
◆
兄上は私とアーマデアの入学と入れ違いに学習院を卒業していったため、正式に婚約変更を周知したことで起こった下世話な注目は、アーマデアの言った通りしばらくすれば鳴りを潜めた。
そうなると不思議なもので、あれほど複雑な気持ちになったアーマデアとの婚約を、私はすんなりと受け入れるようになった。
なぜなのか考えようとして──己の浅ましさに気づいて、やめた。
婚約の変更が己にとっては都合の良い出来事だと、兄の婚約者だったころから彼女に惹かれていたのだと、そのような事実を認めるのはあまりに恥知らずな事に思えたのだ。
「…………なにがご機嫌ようだ」
どこかで聞いた事のあるような台詞だと思った。以前にも同じような場面で同じような事を彼女に言ったのだと気づいて、少々馬鹿馬鹿しい気持ちになる。
午前も早いうちだというのに、私の学習院の領宅の庭で、アーマデアが茶のカップを傾けていたのだ。
我が物顔で寛ぐその光景に、呆れで溜息が漏れる。
「そう怒るな。座ったらどうだ?朝食がまだだと聞いたぞ」
「休日には昼食と纏めて摂ることにしているんだ。そういう君はどうなんだ?まさかと思うが、テーブルにあるそれが君の朝食か?」
「いや、朝食はもう済んでいる。朝の食事は定刻に必ず摂ると決めているのでね」
アーマデアはそう言って笑うが、ガーデンテーブルの上にはとても朝食後の茶の伴とは思えない量の軽食が載せられている。
……寮宅の使用人が張り切って供したのだろう。公爵令嬢の身分にある婚約者に、粗末なもてなしをするわけにもいかない。
こんな事なら朝から読書などに励まず、早々に寝室を出ればよかった。そうしていれば、アーマデアに出す茶請けの指示も出せただろうに。
仕方なく彼女の向かいの席について、軽食のほとんどを自分の方に引き寄せる。令嬢を喜ばせんと菓子類が多く、胸やけしそうだと思った。
「来たのならば呼べばいいだろう。いや、そもそもが、来るならば知らせておいてほしいが」
こってりとしたクリームが乗ったパイを手に取り、少し迷って半分に割る。さすがに重すぎる。責任をもってアーマデアに半分は食べてもらおう。
割った半分をアーマデアの前の皿に乗せようと視線を上げると、彼女が珍しく気の抜けた顔でこちらを見ていることに気が付いた。
「……どうした?」
尋ねても、彼女は不思議そうに私の顔を見るばかりだった。そうして、「ジークムント、」と小さく囁くので、聞き取り損なわんと思わず身を乗り出す。
すると、何を思ったか、アーマデアは私の頬に唇を寄せた。
「なあっ!!!……にを、するっ!!?」
一瞬、天地が逆さになったかと思った。
それくらい一気に顔に血の気が上ってきたのだ。
思い切り仰け反けってアーマデアから身を離す。弾みで動いたのか、テーブルの上のカトラリーが文句のように音を立てた。
その向こうで、彼女はくっくっと愉快そうに喉を鳴らして笑っている。
「アーマデア!!」
「怒るな。私だって、……嬉しくなれば浮かれもするさ」
そうしてはにかむように笑った彼女に、今度はこちらが気の抜けた顔を晒すことになった。
一体何が嬉しかったというのか。喜ばすことをした覚えがなく、ほんの少し、途方に暮れるような気持が過ぎる。
だが、彼女のそういう表情を──常からの、あの泰然と構えたような底の読めぬ微笑みではなく、年相応の少女じみた笑顔を見たのは、それが初めてだった。
「もうしない。ほら、食べよう」
呆気にとられたまま動かない私に肩を竦め、アーマデアはゆるりと雰囲気を普段のものへと戻す。
調子が狂うと思ったのは、おそらく彼女の方も同じだったのだろう。
促されて、先ほど割ったパイを口に運んでも、まだ私はぼんやりとしたままだった。
何が彼女を喜ばせたのか。それだけを考えて、その思考が彼女に筒抜けなことに気が付いて、笑う彼女に「アーマデア!」と声を上げて。
その時は、戸惑いながらも、この先はこんな日々が続いていくのだと思っていた。
浅ましいと思った自分を乗り越えて、彼女に向かい合った日には、この日々がただ幸福な記憶だったと認めることができると、思っていた。
二百話記念の続きの話です。テレジア伯爵の昔の話になります。




