03 温室は鳥籠のよう
温室へ、と言われて案内をして貰ったのはいいものの、城の奥へ奥へと入っていく道のために少しずつ不安になった。
こんな時に限って途中で誰かと行きかう事も無い。が、遠くのバルコニーや通路から近衛兵が目を丸くしてこちらを見ている事は度々あった。自分でやり始めた事だが、既に激しく後悔していた。
「もう少し、だから。ごめんね、カルディア」
だがその苦労のおかげで王太子の具合は少しはよくなっているようだった。白かった顔色に僅かに血の気が戻ってきて、今は青い顔をしている。脂汗も引いたように見える。
結局、辿り着いたのは一番奥にある中庭の端だった。巨大な鳥籠のようなガラスの建物で、そして私はその建物に覚えがあった。
貴族院の世間話で聞いたことがある。ここはアルフレッド殿下が生まれた時に建設された、彼だけに与えられた非常にプライベートな温室庭園だ。という事は、今歩いてきたあたりはファルダール宮殿ではなく、隣接する離宮扱いの場所……本当に王族のみしか立ち入らない場所ではないか。道理で使用人や近衛兵となかなか行き違わない筈である。
王太子は私の腕の中から非常に気まずそうに「……どうぞ入って、カルディア」と入り口を指さした。
最早ここまで来ておいてさっさと王太子を置いて帰るというわけにもいかず、私は言われた通りにその温室へと踏み込むと、まるで部屋のように整えられた区画のカウチの上に王太子をそっと下した。
「ありがとう。凄く助かった……」
「勿体ないお言葉です、殿下。今、典医を呼んで参りますので」
「……いや、いいよ。いつもの事なんだ。ここにいればすぐに落ち着くから、大丈夫。ごめんね。もうちょっとしたらお茶でも用意するから、そしたら話をしよう」
そんな顔しないでよ、と王太子は笑って私の眉間を指差した。どうやら皺が寄っていたらしい。
王太子が倒れたのだがら、大丈夫だなどと言われたところではいそうですかという風には思えない。けれどその王太子が典医に診てもらう事を拒み、その上話をしようと言われてしまえば、私はそれに従うしかない。
これで王太子の顔色が今も倒れた時のようだったなら振り切って典医を呼びに行くところだが、王太子の言う通り、彼の具合は良くなってきているように見えた。
「昔からなんだ。持病ってわけじゃないんだけど……発作みたいなものかな。ここに植えてある植物の香りがそれを和らげてくれるみたい。だから、ここは僕のために用意された部屋の一つみたいなものなんだ」
……この鳥籠がか。
確かに、調度品はそのまま私室に運び込まれるようなものが揃えられている。天蓋付きの寝台に、カウチソファ、テーブル、書案に洗面台やクローゼットまで置かれている。
「春や秋、冬なんかは、ここでそのまま生活しちゃう事も時々あったよ。ここは呼ばない限り誰も来ないから……そっとしておいて欲しい時とかには、丁度いいんだ」
なるほど、と私は頷いた。この国の王子ともなれば、私生活においてもプライベートな時間など無いに等しい。寝る時でさえ誰かが傍に控えている生活なのだ。時々は一人になりたい時間だってあるだろうし、それは他の王族であっても理解するところだろう。
だからこそ、この外から中の様子が分かる鳥籠の中でなら、一人きりになる事が許されるのだ。
「だからね、グレイスもここにはまだ一度も入った事は無いんだよ」
「はぁ……そうなのですか」
まあ、一人になりたい時に利用してる空間だというのなら、グレイスやエリックが無遠慮に踏み込んで来れるものであってはならないだろう。
なんとはなしに頷くと、王太子はくすくすと笑いだした。
ん、もうそんなに回復したのか。これならさっさと話を聞いて暇できそうだな。
「あのね、ここに人を入れたのはカルディアが初めてって事だよ」
「あ、はい。はい?」
話の主旨がよく分からなくなってきた。一番王太子の近くにいるグレイスが入った事が無いというのであれば、当然それもそうだろう。王太子は一体何が言いたいんだ。
「うーーーん…………。まあ、いいか」
王太子は困ったように笑った。困りたいのはこっちである。
四半刻ほどして、王太子はなんと手ずから紅茶を用意してくれた。恐れ多いが、ここには他人の目が無いので、そう突っ撥ねる必要は無いだろうと考えてありがたく頂く事にする。
「それでね、今回の要件なんだけど。父上にこれを用意するように頼まれてね」
王太子は懐から小さく折り畳んだ紙を取り出した。写しだけど、と言って渡されたそれを広げて、はて私に一体どんな関係があるのだろうかと思って読んでみると。
「…………寮宅の移動について……?」
そんな申請など一切出した覚えは無いのに、学習院で利用している寮宅の移動認可書がエリザ・カルディア・エインシュバルク宛とはっきり書かれてそこにあった。
「そう。急な話で申し訳ないんだけど、君には寮宅を移って貰う必要があるらしいんだ。今朝から手続して、さっきその書類を貰って急いで帰ってきたんだよ。急ぎすぎて発作が出ちゃったけどね。早ければ早いほどカルディアの負担が少なくなるかなと思って」
「有り難きお心遣いと存じます、殿下」
確かに寮宅の移動ならば出来る限り早めに知らせてくれた方が助かる。しかし……王命での寮の移動とは一体どんな事態なのだろうか。
事情を知っているのかと思って王太子に視線を戻すと、なぜか王太子は苦笑を浮かべて私を見ていた。
「……カルディア、ここには誰も……あ、君の侍女殿以外は誰も居ないのだから、そんな堅苦しくしなくてもいいんじゃないかな。こんなところじゃ立場なんてあって無いようなものじゃない?」
ああ、その話か。学習院に入学した時も似たような話をされたが、ここは人目が無いのだから少しは譲歩して欲しいという事だろうか。
「…………気遣いに感謝致します、殿下。これでよろしいでしょうか?」
「まだまだ堅いと思うけど……。うん。ごめんね、我儘ばっかりで」
「いえ」
首を横に振りながら、私はほんの少し王太子の事が気にかかり始めていた。
…………この国の王子として生まれ、王太子として育った筈の彼が、どうしてこんなにも事ある毎に謝罪を口にするのだろうか、と。




