カルディアの春の芽吹き・7
ナジェという女性の顔にはなるほど見覚えがあった。
私が訪ねていくと、最初はぽかんとした表情を浮かべ、次に不思議そうに、けれどはにかむような笑みを浮かべて私を家に迎え入れてくれる。
奇妙な気分だった。こうも畏縮せずに私に接する旧来の領民は、幼い子供や領軍の兵を除けばそうそういるものではない。
「一体どうなさったのですか?私に何か用があるとか」
「ああ、それがだね、ナジェ……」
ナジェへの説明は村長が行ってくれた。随分気を使わせてしまっていて、逆にこちらの気が引ける。けれどそのお陰で、話を聞くナジェの反応は非常に分かりやすかった。
ギュンターとの仲を聞かれた時には少々恥じらい、私を気にする様子をみせつつも彼を慕っていると正直に話してくれた。しかし、では、と少々ほっとしたような様子で村長が婚姻届の事を確認した途端、その様子は打ち砕かれたかのように消え失せた。
「え……、私と、ギュンターさんが、結婚?は……え?」
半ば呆然としてそう聞き返すナジェに、私と村長は顔を見合わせる。
彼女は当事者の筈だが、話に心当たりは無いらしい。その困惑ぶりに嘘は混じっていないのは明らかだった。
……となると、話を聞くべきは彼女の父親か。
アークシアの平民の婚姻法は領地によって異なる。テレジア伯爵と私が新たに定めたものは、婚姻する両人の合意の下で住んでいる村の纏め役に婚姻の届け出を作成して貰い、両者のサインをした上で領主に提出する事、というものだ。
しかし、改定以前の法は貴族の婚姻法が元となったものであり、結婚に必要な同意は婚姻する両人のものではなく、夫となるもの本人と、妻となるものの親或いは保護者のものであった。
「村長、婚姻届の作成を依頼しに来たのは誰だった?」
「……そういえば、ナジェの父親でした。も、申し訳ありません、私の確認不足が……」
「いや、親は無条件で子の代理人となる。婚姻届の作成時点であなたに責任は無い」
問題なのはそこではなく、ナジェの名前が婚姻届にサインされていた事である。ナジェが知らないというのなら、あのサインは偽造されたものという事になり……その時点で法に触れる事になる。
「あの……私、どうしたら、」
話の概要を察したのか、顔を青くさせるナジェに私は「大丈夫だ」とその肩をそっと握った。
「この件に関しては貴女は悪くない……というより、サインを偽造されたというなら被害者側だ。ギュンターか、それとも貴女の父親か、その両方かは分からないが、サインを偽造した者にあなたは罰を望む権利がある。決して望まれる方ではない」
まあ、父親への罰を与えるのは、私の裁量ではなく家庭内での話し合いの元で行って貰う事にはなるだろうが。
私の説明にナジェは分かったような分からないような表情を浮かべて頷いた。まあ、大事にはならなそうだと判断して貰えればそれでいい。
「とりあえず、貴女の父君に話を……」
そう切り出した時だった。
ぴこん!と隅の方で寝転がっていたラスィウォクが突然顔を上げたかと思うと、がちゃりと空いた玄関扉へへ向かってとととっと駆け出す。
「おいナジェ、いるか──うおぉっ!?ラスィウォク!!?」
そうして、丁度このタイミングで訪ねてきたギュンターの肩にその両前足を掛けるように飛び付いた。
無論ギュンターは為す術もなく後ろにひっくり返る。
わふん、と嬉しそうに鳴いたラスィウォクに、よろよろと起き上がったギュンターはぽかんとした顔で家の中に居る私達を見た。
「は?なんでお前、ってかそのガキ共、つうか、村長?」
「あー、ギュンター、丁度良い所に来たな。混乱している所悪いが、少し聞きたい事が──の前に、すまないが、その背負袋の中に雪蛇が入ってるだろう。売ってくれないか」
きゅーんきゅーんと強請るように鳴きながら、ラスィウォクはギュンターの背中にぶら下がった袋に鼻先を押し付けている。あの反応は完全に好物である雪蛇を欲しがっているときのものだ。
ギュンターは珍しく間の抜けた困惑顔のまま、「あ、ああ……?」と鞄から真っ白な蛇を取り出した。ん、生きたままのやつか。越冬物であるし、少し高めに値を付けるか。
雪解けを過ぎた後の雪蛇は希少だ。雪を食べる、と言われているのが本当かどうか知らないが、雪と共に黒の山脈を降りてきて、雪が溶ける前には殆どがその姿を消してしまう。時折見つかる春の雪蛇は鱗の美しさはやや落ちるものの、肥えていて美味い。
「ラスィウォク、お前、まさかいつもこんな風にギュンターにおやつをねだってるんじゃないだろうな?」
雪蛇を受け取りながら嬉しそうに尻尾を振り回す狼竜に釘を刺しておく。ラスィウォクの耳はへにょりと伏せられ、ギュンターは視界の端で苦笑いを浮かべた。




