48 テーヴェ川岸辺の戦い・下
日暮れが過ぎ、両陣営が引き上げた川辺に夜が訪れる。今夜は都合良く月が雲に隠れ、辺りは早くも暗い闇に閉ざされていた。
ディ・ロエ・トロスからディ・ロエ・ダスを大幅に迂回し、上流から川を下る軽装カルディア領軍を、私はヴェドウォカの背から見守りながら、私は右手を軽く開いたり閉じたりする。
昼間の交戦時にラスィウォクの勢いに乗せて斧槍を振り回した際、少々自分の身体が耐え切れる威力を越えてしまっていたらしい。ディ・ロエ・ダスへと戻り戦場の興奮が冷めた頃、手首を中心とした軽く引き攣るような痛みに気付いた。間抜けにも筋を痛めたらしい。
とはいえ動かすのに支障がある程でも無く、こうして再び戦場へ出る事になっているのだが。まあ、昼間とは違ってこの役目は代わりがきかないので仕方ない。何しろ私の領軍の指揮である。
……新しくカルディア領の中心となった領主の館と新入領民の村の設立において、カルディア領軍の兵は全員が動員され、数年に渡ってあらゆる工事に従事していた。
対リンダール戦を考慮に入れて編成されたカルディア領軍は領の規模からはあまりに不相応な数の人員を抱えて膨れ上がっている。が、我がカルディア領は相変わらず貧相なもので、遊ばせておく人材など許容出来る訳もなく。伝統であった夜の食事の自力確保を廃してまで、全力で開拓及び農業工業に従事させる事で辛うじて莫大な赤字を防いでいた。
と、まあ、こういった事情から実はカルディア領軍は剣や槍を振り回すよりも鍬だとか斧だとかを振り降ろす事に長けている者も結構な割合で存在しており、しかも全員川での作業は経験済みだ。食い物が足りないとかでしょっちゅう湖を潜ったり、釣りをしていた事も頻繁にあった。
ウィーグラフからはその水中での集団行動への慣れを評価されたらしい。人数も恐らくこの隠密作戦には丁度良い程度だった。
……というわけで、剣や槍から斧やら鋸やらに持ち換えた我がカルディア軍は船への奇襲のために川下りである。
船団より少し手前で停止した領軍から、一際泳ぎの上手い奴が六人、六艘の大型船へとひっそりと接近する。
大型船はパーミグランのものだ。河岸に展開した歩兵を乗せた小型船を曳船し、現在は兵糧や矢、短筒火矢の弾などといった兵糧を積んだ兵站として機能しているらしい。
リンダール側には、と言うより、デンゼル公国にはもう後が無いようだ。それを証明するかのように、不利に傾き始めた戦況化でも船は川を下ろうとしない。
エリスの兵力の回復と出陣を待つしかない、という状況なのだろう。船の中では明日の朝へ向けて軍を率いる貴族達が必死になって準備に追われている筈だ。
眼下では兵士たちが大型船の船首へとたどり着いた。それぞれが斧を大きく数度振り回して合図をしてくる。私もそれに剣で応じ、ディ・ロエ・ダスからの合図を待った。
「……そろそろか。メフリ、調子はどうだ?」
私の前に座るメフリに声を掛けると、振り返ったメフリは恐々とした表情で頷いた。
「そう怯えた顔をするな。今宵はお前の、栄光あるアークシア人としての初陣となるのだから」
メフリは再度頷く。しかし、顔は強張ったままだ。リンダール側に自分の裏切りが露見する事を恐れているのだろう。何しろ、取り返しのつかない人生の転換点を迎えようとしている。
「何か適当な事でも考えろ。そうだな、今日の食事はどうだった?戦地のため粗食だが味はそれほど悪くなかったと思う。量は少なかったが、それは仕方ないか」
「す、凄くおいしかった、よ?それに、あんなにたくさん、食べたの、はじめてだった」
「そうか?──ああ、そうか。……これまでお前の面倒を見ていた者がどんな人間かは知らないが、子供に碌な食事さえも与えない奴だという事だけは分かった。いいか、メフリ。あれは粗食だ。私の領は間違いなくアークシアで最も貧相な食事が出る所だが、立て直しの甲斐あってここ数年はもう少し満足出来るものを食べているぞ」
お前にそんな仕打ちをした国など絶対に許すな、と、声にたっぷりと哀れみを含ませれば、メフリの瞳に昏い感情が満ちていく。
「私の兵を見ただろう。装備はどうだ?他の騎士などと比べて随分粗末なものだろう。私の領は貧しい。だが、お前のこれまでの生活よりは確実に満たされている筈だ。その証拠に、私の兵達は一人もお前のように痩せ細った者など居ないだろう?」
猫撫で声で囁く度に、メフリの顔は泣くかのように歪んでいった。惨めな扱いを受けた事を思い出しているのか、肩がわなわなと震えている。
メフリの背を撫でてあやしながら、ディ・ロエ・ダスの灯台に火が灯されたのを確認する。一つ目の合図だ。
「……さあ、メフリ。お前の力を使う時だ。お前を家畜のように扱った者への怒りを燃やせ。クシャの徒として生まれ変わり、他者のものを奪おうとする不逞の輩にミソルアの裁きを下すのだ」
まるで子供を唆す悪魔の言葉のようだと思わないでもないが、まあ、どう考えても悪いのはリンダールの方なので遠慮なく吹き込んでおく事にしよう。
風に乗って徐々にざわめきが聞こえ始める。アークシアの歩兵が一気に船団へ向かって突撃を開始したのだ。
彼等の持つ無数の松明が夜暗に揺れ広がり、争いを告げる火に散々に血を吸った地上が再び照らされる。
リンダール側も漸くアークシア軍の強襲に気付いたらしく、それまでの静寂が嘘のように船上が騒がしくなる。
慌てて戦支度をする者や船を飛び出していく者達の音が騒々しく重なり合う──それに紛れて、船体にしがみついていたカルディア領の兵士たちが船に斧を振り下ろし始めた。
片手で振る小さな手斧だ。勿論そんなもので船が破壊できるわけではない。水の中の不安定な体勢では板一つ割るのにあまりにも時間が掛かるだろう。
が、ものを置いたり引っ掛けたりする程度の窪みや穴を作るには、それで十分だ。
仕掛けを終えた者達が全員隊列に戻った事を確認して、私はメフリに確たる裏切りを促した。
「やれ、メフリ。リンダールに別れを告げろ!」
「…………っ、う、ああ、ああああああーーーッ!!!」
幼い少女の喉から、絶叫とも怒号ともつかぬ大音量の声が迸る。
祖国への裏切りに対する恐怖や躊躇いを振り払うかのように。
言葉にならない怒りや悔しさを、腹の底からそのまま吐き出すかのように。
ごぽり、と水の揺れるような不気味な音が響き、六艘の船の船首が派手に爆ぜて吹き飛んだ。
「行け、私の軍よ!!アークシア軍総帥からの直々のお言葉だ!テーヴェの敵軍は殲滅せよ!船は全て破壊せよ!テーヴェの川を、赤いドブへと変えてやれ!!!」