17 翳る紫の宝玉
「……学生になっていたのだな。修道院から戻って来られて良かった」
「ああ、そうだな。僕もそう思うよ」
私の無難な言葉に青年が頷く。けれど、その声には翳りがあるように聞こえた。
家の事情が今でも複雑なままのだろうか。準成人を迎える前の子供を修道会へと入れるくらいなのだから、数年程度ではどうしようもないややこしい事情があってもおかしくはないが。
「……修道院での生活は好きになれなかったからな」
彼がぼそりと付け足したそれに、私は曖昧に頷いた。
まあ、そうはそうだろう。
諸修道会での生活はそれなりに知られてはいるが、禁欲的で質素、奉仕的で過酷である事はどの会でも共通している。自分から望んで修道院へと入るならばともかく、強制的に放り込まれたというのであれば好きになれないのも当然の事だ。
「その従者、怪我の様子は大丈夫なのか?相手も平民と見てとりあえずで割り込んでおいたが」
「頭の中に出血が無ければ問題は無いと思う。骨も折れてはいなさそうだ」
従者を助けてくれて感謝する、と続けると、青年はふっと笑った。品の良い笑みだが、生気の無い、疲弊した人間の顔だと、以前と同じ印象を受ける。その表情がどんな意味を持つのか反射的に考え、けれど彼について何も知らない私には全く理解は出来ず、少しだけ後味の悪いような気分になった。
以前一度だけ修道院で出会った時より暗さを増した翳りが、まるで私を睨む領民の目を見た時のように重たく胸の奥に凝っていく。
……けれど、彼は私の領民ではない。
湧き上がりかけた彼への感情を全てその一言で削ぎ落とす。私はカルディア領の領主だ。領民以外に、領民と同等に心を砕くような存在があってはならないのだ。
この青年に前回会ったのは四年程前の事だっただろうか。領民とそれ以外に対する考えがその時から全く変わっていない事に少しだけホッとした。
会話が途切れる。しかし、まだレカを休ませておきたい。この場を立ち去れない私は、目の前の青年が立ち去るまではこの場に残らなければならない。
恣意的に関心を殺した相手との沈黙は随分と居心地が悪くて、けれどどれだけ探しても接点の無さすぎる相手に振るような話題は見つからなかった。
「……学習院に入ったのは、この春か?それとも、一つ前か?」
そうして結局先に口を開いたのは、青年の方だった。
「この春からだ」
「そうか。なら、大変そうだな。今年の一学年は影響力の大きい存在が多過ぎるから」
「……ああ、そうだな」
まさに今こうしてここに居るのはその影響力のせいなので、私の声は自然と低くなった。現場に居合わせた青年も何となくそれには察しがついているのか、ちらりとその視線が一瞬横たわるレカへと移る。
「王太子殿下は……どんな方だ?ずっと城の奥で育てられた王家の重宝と謳われる存在に相違は無いか?」
視線はすぐに外された。どうやら会話を止める気は無いらしい。
学習院で起こり始めた派閥争いについては触れる気は無いのか、それとも上級学習院には話がそれほど広まっていないのか、青年は暫く学園を留守にしている王太子へと話題を絞る。
さて、何と答えるべきか。青年が王太子に好意的な立場なのか判断がつかないので、慎重に言葉を選んだ。
「……王太子という地位に相応しい御方だ。あの方はそこに居られるだけで人の目を集める。それは得難い資質だと思う」
「王家の創始以来で最も麗しい王子だという声は僕も聞いたな。だがまだ一度もその姿を拝見した事は無いんだ。……王太子殿下の見目はどれほど良いのか、想像がつかないな。例えば君だって、令嬢達の心を切り裂きそうな、とても優れた面立ちをしていると思うが」
切り裂きそうな、とはどういう意味だろう。そんな物騒な見た目をしているつもりは無いのだが……。
褒められたのか貶されたのか良く分からず、微妙な気分になる。父親に瓜二つの容姿は確かに世間的な基準からすると美形な方なのかもしれないが、女性としての美には程遠い気がするし、そもそも私はこの顔が心底嫌いなので、優れた面立ちとはどうしたところで思えない。
「私など比較するのも烏滸がましい。王太子殿下は本当に何事にも秀で、優れた御方だから」
けれど、まあ、その父親譲りの顔などあの王太子の前では他と同様に霞んでいる事だろう。
容姿、地位、学力、どれをとっても王太子は一級の存在で、悪評に塗れた地方の成り上がり等と比べて良いものではない。
「……そうだろうか」
だが、青年はうっそりと暗く沈むような紫の瞳を眇めて、僅かに首を傾げた。
「王太子の他に、もう一人、一学年には注目を集めている者が居るだろう。王と宰相の覚えもめでたい、優秀な姫が」
「姫?」
首を傾げた。そんな存在は聞いた事が無い。
「……知らないのか?」
「学習院の中では聞いた事も無いな。王家の人間なのか?」
いや、と青年は首を振った。では公爵家の御令嬢達の誰かか。王と宰相の覚えもめでたいという事は、王都の貴族の誰かだとは思うが。
「王太子殿下を立てて、学習院内では目立たないようにしているのかもしれないな。戦の作戦を立てた功績で褒章を授かったと聞いたが……」
戦の作戦、という事はローレンツォレルの関係者だろうか。此度のリンダールとの戦争はアークシアにとって久々の戦争ということもあって、かなりの数の人間が褒章を得ているため、それだけではどうにも絞り込めそうに無い。
作戦を考えるだけなら女でも、実際に戦場に立たなくとも、出来ない事は無い。
ローレンツォレル家の子女は男女の別なく戦術や武術を身につけるよう教育されているし、優れた戦術家の姫が居ても不思議ではないが……。
「王太子殿下は果たしてその姫よりも本当に優れているのか。同年代の女などに、例え戦術であっても負ける事など王太子として許されるのか。そう言いたいのか?」
「……そうだな。王太子殿下は、不安定な情勢にも関わらず第一殿下を降ろしてまで立太子された方だ。それくらい期待されても当然だろう?」
私は思わず青年の瞳から視線を外した。背中に悪寒がして、彼の表情を見ていた事をほぼ反射的に後悔した。
僅かに細められた瞼の奥で、瞳孔が開きそこにどす黒い感情が噴出する、その瞬間を見てしまった。




