12 盤上遊戯
翌日学習院へ戻ると、おはよう、と声を掛けてきたゼファーを殆ど突き飛ばすように押し退けて、予想していなかった人物が私の前に進み出てきた。
エリックだ。今にも噛み付きそうな、それでいて不満げなような、微妙な表情で彼は私を睨み上げた。……自分より身長の低い相手に凄まれてもな。
何か用か、と言いよりも先に、乱暴に押し退けられたゼファーが机の方へ倒れ込みそうになっているのに気が付いて、反射的にその腕を掴んで引いた。机の角に後頭部のあたりを打ち付けそうだったからだ。
強く引きすぎたのか、今度はゼファーは前方にたたらを踏んだ。肩を支えてやろうと左手を上げたが、その瞬間肘から上が意思に反して強張るように震え、ゼファーの身体が腕の内側をすり抜ける。
鍛えているとはいえ、踏ん張ってもいない体制で自分と殆ど同じ大きさの人間を咄嗟に支えられる訳もなく。
──仕方が無いので、受け止めるのは諦めてゼファーをそっと床に転がした。
「……危なかったな。頭を打つところだった」
「あ、りがとう、カルディア。助かったよ……?」
礼を言いながらもゼファーの声に疑問符がついていたような気がしたのは結局床に転がっているせいだろうか。怪我をしないように転がしてやったのだが、何となく腑に落ちなそうな表情をしている。
私はゼファーの腕を再度引いて彼を立たせ、それからエリックに向き直った。
酷く動揺した顔のまま、エリックは固まっていた。
けれど、私と目があった瞬間、ぎこちなく動き始めた彼は、じわじわとバツの悪そうな顔になって、ゼファーへと視線を移し。
「……、わ、悪い、モードン。その……俺の不注意で、怪我をさせるところだった」
…………なんだ、その謝罪は。平民か下級貴族か。国家の税を注ぎ込んで最高級の振る舞いを叩き込まれている筈の大公家の人間がするような謝罪ではない。
いえ、と慌てて言いそうになったゼファーの腕を引き、それを制する。
ゼファーとて辺境伯の嫡男である。上級貴族の一員である以上、貴族としての品格を保てる振る舞いをしなければならない。明らかに非のある相手に対して、それが大公家の者だからといって、分別無く謙るような真似をしてはいけないのだ。
はっとしたようにゼファーは口を噤み、私は冷ややかな目でエリックを見つめた。
エリックは何も言わなかった。何故だか知らないが、その強張った表情は途方に暮れているように見えた。
「──カルディア、モードン。それにエリックも。一体どうしたんだ?」
そこへ怪訝そうに総帥の孫がやって来て。その瞬間、エリックの困惑したような雰囲気が壊れるみたいに霧散する。
ぱっと踵を返して、エリックはそのまま講義室から走り去って行ってしまった。感情の処理が追い付かなくなって逃避したのか。多感な年頃だし、まあそういう事もあるのだろう。
結局エリックが何を言おうとしていたのかはわからずじまいだったな……。
「あのさー、前から聞いててずっと思ってた事なんだけどぉ。それって、エリザ様の気が引きたいからやってるんじゃないかなぁ?」
与太話的に今日の出来事を話し終えた後の呆れたようなレカの声に、私は一つ瞬きをした。
アスランと挟んだ盤上遊戯の駒を動かして、ふと視線のあったラトカと沈黙の会話を交わす。「お前今のレカの言った事の意味分かったか」「いやさっぱりだけど」。
視界の端でティーラがくすくす笑い、アスランも何だか小さな子供でも見るように曖昧な表情を浮かべた。どうやら私とラトカだけが分かっていないらしい。
「初対面の時、相手にしなかったんでしょ?」
「からかわれたからな。以来嫌われたようなので、ずっとそのままの対応を続けているが」
「だから、それだよぉ。相手はエリザ様と仲良くしたいけど、どうやって友達作るか知らないんだ。元から友達だった人しか居ないから。どんなふうにすればエリザ様が友達になってくれるかわからないし、喧嘩した友達と仲直りする方法もわからないんだよぉ」
……エリックはあの無礼極まりないやり方しかコミュニケーションの方法を知らないと?
「一応謝罪のようなものはしていたぞ?」
「お兄さんがいるんでしょ?ちょっとした事でごめんなさいする事なら出来るんじゃないかなぁ」
流石に子供だらけの環境で育ってきただけあって、レカの説明には説得力がある、ような気がする。
……貴族の子供の成育環境は特殊だ。その上エリックは出生や母の死によって更に特殊な環境へと追い込まれている。正直それだけの要因でコミュニケーション能力に大きな障害が発生しているとは考えたくないが……。
「……とはいえ、ドーヴァダインの令息と親しくするつもりは無いぞ」
「えー、なんでぇ?」
「国王陛下から賜ったものに対する貴族達の反発がある以上、大公家という巨大な権力に接近するのは余計な悪感情を招きかねない。悪評で済むくらいで抑えておく必要がある」
「んー……そっかぁ。友達になりたい!って子と周りの大人のせいで仲良くしてあげられないっていうのも、悲しい話だねぇ……」
次の手に悩んでいたアスランが騎馬の駒を動かした。出しておいた長弓でそれを討つと、ラトカがアスランに何事か吹き込む。おい、助言はフェアじゃないだろうが。
「そうかな?エリック様との関係を直して仲良くし始めたところで、あんまり何か言われるようにはならないと思うけど」
紅茶を注ぎ直してくれたティーラが私とレカの会話に口を挟む。ついでにお茶請けの如く手元に小さな焼き菓子を載せた皿を出してくれたので、私はそれを口に放り込んでから、ティーラの発言の意図を尋ねた。
「エリック様の問題行動は貴族の間では広まっているのでしょう?」
「ああ。学習院での事は侍従を通してその親である貴族達に知られている筈だ」
「大公家の嫡男であるグレイス様の方は、エリザ様と必要以上に仲良くしたいと考えてないのよね?」
私はその質問にも頷いた。グレイスの場合、仲良くするかしないかを考える以前に『下級貴族など同じ貴族でない』くらいの意識的な隔たりがある気がするが。
「その状態なら、貴族から見たら大公家の権力はエリック様じゃなくてグレイス様のほうにあると考えられるんじゃないかな。そもそもエリザ様がエリック様に冷たくしたのって、王太子殿下や大公家の嫡男から距離を取るためよね?」
「……確かにエリックと親しくしても、グレイス殿の私への認識は変わらないだろうし、王太子殿下の事も彼が上手く導いてくれるだろうが……。貴族の視点はそう単純なものではない。エリック殿の態度や評価はどうであれ、彼が大公家の人間である以上、接近すれば何かしらの反発は必ず生まれる」
「そっか。アークシアの貴族って、アルトラスの王の槍よりもずっと複雑なのね」
民族国家として発展したアルトラスには貴族制度と呼べるものこそ存在しなかったが、出自による身分の隔たりとしての貴族は存在した。
シル族はアルトラス人に数えられ、支配者層としてアルトラスの王に最も近い血族の一つだった。時には王を排出する事もあったという。
「複雑かどうかは何とも言えないが、きっと考え方は全く別物だろうな。アークシアの国王は沢山の力ある血族から一人の代表を選ぶ訳ではなく、神聖アークシア王国の初代国王であるアハル・クシャの血を引くものでなければならないとされているから、広義の王家である王の槍とは別物だ」
「血が神聖視されてるのって、本当に不思議ね。同じクシャ教徒なのに、どうしてこうも違うのかな?」
私は肩を竦めてその質問に答えるのを避けた。そういった事は宗教家に聞く事であって、間違っても宗教を領地の統治にどう利用するかしか考えていないような不信心な領主に聞くことではない。
「あ、アスラン。チェックだぞ」
「うぐ……」
駒を進めて王への道を開いた盤上に、アスランとラトカは同時に呻き声を上げた。
まだまだ弱いな。私相手にこれでは一生掛かってもクラウディアに勝つ事は出来ないぞ。