05 学園生活は手一杯
さて。大公家の子息に喧嘩を売られて幕を開けた私の学園生活だが、それほど真新しさを感じるものではなかった。
どこにいようと私のやる事にあまり変わりが無いためである。
オスカーやクラウディア、適当な領軍の兵士が運んでくる領政の書類を処理し、西部の灌漑工事の報告を確認して指示を出し、領内の食料生産状況を確認して輸入食料の試算をし……何故かユグフェナから届くようになったリンダールの諜報報告書に目を通す。
一応この諜報報告書というものは、王軍の指揮官や重要防衛地点の統括を行う者などの一部を除いて、貴族院を通してからでなければ閲覧出来ないものである筈なのだが。
……何故か学習院への就学を理由に徴兵を免除された頃から、これがウィーグラフ殿から送られてくるようになり、情報を整理して次の戦の作戦立案書を書いて送り返さねばならない事になっている。
私とエルグナード、ウィーグラフ殿の三人で足並みを揃えて悪どい作戦を行っていたのだから、まあ今更抜けられると困るという事なのだろう。いや、寧ろ何かしらの理由で前線に戻された時に状況把握を出来る限り省略させるという意図からかもしれない。
このような状況なので、とても学業に専念する事など出来ていない。
毎日存在する講義科目やそれらで出される大量の課題をどうやって捌いているのかといえば──簡単な事で、私は二人いる。
「なぁ、今日もエリックって奴からすれ違いざまに髪引っ張られたし、マントの裾踏まれたし、さぞ優秀なのだろうとかいって上級学習院?の講義内容の概要を説明させられたぞ。どうなってんだよ?」
「私が聞きたい」
黙々と裁可印を押す私の隣で出された課題を熟すラトカに、ただ一言そう返す。
……というか、髪を引っ張るだのマントの裾を踏むだの、随分しょうもない事をするな。子供か。十三にもなって……いや、十三歳は子供だな。
「講義内容の概要というのは?」
「ん?えーと、アルトラスの法学書を使った講義があるらしいんだ。で、ざっと見たところ同じ神聖法典を元にしてるアルトラスとアークシアの法律にどんな違いがあるかとか、どうしてそんな違いが存在したのかとか、その影響についてを分析したり、取り入れた時にどんな事が起こるかを予測したりするっぽい本だったから、そう説明しておいた」
「比較法学だな?本の題は?」
「『別宗派における法の差異の考察』。教会の本だった」
「ああ、それなら読んだ事があるな。問題無い。一応お前も後で読んでおけ」
了解、とラトカは頷いて、また課題に戻る。
学業を別の人間に代わりにやらせるのはいけないことだと分かってはいるのだが、ラトカに関しては私のスペアなので例外と考えるしかない。どうやったって一人で熟すには無理な作業量なのだし。
一応全てラトカに押し付けている訳ではなくて、自分で出来る限りは授業にも出ているので、仕方ないのだ……と、自分自身には言い聞かせている。
それにしても、とそっと隣の横顔に視線をやる。幼い頃から色彩や顔立ちの特徴が非常に上手く一致していると感じてはいたが、成長期を迎えた頃からその顔立ちは私にますます似て、今ではあのクラウディアが一瞬見間違えるほどになった。
並べて比べるとややラトカの方が女顔ではあるが、余程普段から見慣れた者でなければ、私の動きや表情といった擬態をしたラトカに疑問を持つ事も出来ないほどに。
だからこそ堂々と入れ替われるのだが……。
「……何?」
クラウディア仕込みなのか、気配に鋭くなったラトカはこちらをちらりとも見る事なく私の視線の意図を問う。
何でもない、と返して、私は彼から視線を外した。
入学から一月が過ぎようという頃になっても、やんわりと探している人物は見つけられていなかった。
実技授業が始まればまだ探しやすいのだが、開始から終了まで身動きの取れない講義では捗らないのも仕方ない事ではある。
探し人は外見情報からすると目立って探しやすい筈なのだが、講堂を見回そうとすると大抵王太子の暴力的なまでの美貌が視界に割り込んでくるので、それが邪魔になっているという理由もある。
今日も講堂に入るなり、光を弾く豪奢な金髪に目を惹かれてしまい、流れで王太子と目が合ってしまった。あの恐ろしく目立つ容貌、本当にこちらの意思に関係無く視線を引くな……。もう少し見慣れれば、少しは違うのだろうか。
目礼だけしてさっさと空席に座る。席が空いていない思われて、王太子の周囲に誘われるのは遠慮したい。気遣いなのだろうが、その後の環境が騒がしくなるのが簡単に予想出来てしまう。
既にマレシャン夫人から散々頭に叩き込まれ済みの講義を聞き流しながら、こちらの都合もお構いなしで親しげに接してくる王太子について、ぐるぐると考えてしまう。
……エルグナード達が私を気に掛ける理由は解る。私が戦の役に立つからだ。それに家名に因んだ貴氏まで王から賜った以上、血の繋がりが無くとも身内の扱いをしなくてはならないのだろう。テレジア家の面々が私から目を離さないのも、あのテレジア伯爵に唯一養育されたものとして注視されているのだと理解している。
だが、王太子が私に構う意図は全く分からない。学習院を出たら私は自分の領地に戻るのだ。軈て王宮からこの王国全土を支配する立場に着く彼が、たかだか一外内地の領主を務める下級伯爵如きを囲い込んで何になるのだ。
三年の我慢とはいえ、貴族共の駆け引きの駒にされるというのはあまり気分の良い物ではない。自分一人ならまだ良いが、私の領地にまで影響が出るようなら……。王太子を抑える訳にはいかないから、王都中、下手をすると国中の貴族をどうにか黙らせる必要があるのか。
ギリ、と手に力が篭る。その瞬間、手の中からベキリと嫌な音がした。
「…………。」
しまったな。ペンが折れた。
いや、最近流石に古くなりすぎてペン軸も限界だったのは分かってはいた。が、まだ使えるからとそのまま使用し続けていただけだ。決してクラウディアのような超人的握力で握りつぶした訳ではない。
問題は、今私が替えのペンを持っていないという事だ。
トドメを刺したのは確かに私だが、何もこのタイミングで壊れなくても良かっただろう、と思わず手の中のペンだったものを睨みつけてしまう。
……講義をどうするか。軸だけ持って書き取りを済ますか。ラトカと情報を共有する以上、教授の講義をなるべくそのままの形で文章に起こしておきたいのだが。
「失礼、カルディア伯爵」
真横から静かに呼びかけられて、私はやっとその残骸から視線を外した。
そうして声の主の方に顔を向けて、私は思わず声を上げそうになる。声を掛けてきたその少年は、まさしく私が探していた相手だったからだ。
モードン辺境伯をそのまま少年にしたような見た目の──そのくせ、何故か彼とは違って何故かそれほど目を引かれない雰囲気の──モードン辺境伯の溺愛する息子が、私の隣に座っていた。
「どうぞ、使って下さい」
何故座る時に気付かなかったのだ、この特徴的な見事な銀髪に。タネのわからないマジックを見せられた時のような、呆然とした気分でいる私に、少年は真新しい羽根ペンを差し出した。
「──ありがとう。助かる」
会って挨拶をしようと考えていたのに、今の今まで見つけられなかった人物がすぐ隣りに座っていた事、あまつさえ同じクラスに在籍していた事への衝撃で、私の口から漸く出て来た言葉はやや間抜けなものとなってしまった。
……というか、その色彩で、その面差しで、なのに何故王太子や父君のように強引に私の視界へ入って来ないんだ、この少年は?