02 学習院へ
学習院。
それは準成人となった満十三歳から十五歳の貴族の子女を集め、神聖法典の内容及び王国法を中心とした法学に、経済学、歴史学、地理学、倫理学、周辺国の諸言語学や教養学──その他あらゆる学問の概要を教授する教育機関であり、またそれらの学問を追求する研究機関の側面も持つ、国内唯一の総合学術教育研究施設である。
教育機関としては、貴族の子女は各家庭である程度の教育をされるのは当然の事として、元々は教会の管理する神聖法典を元にした国法の教育を貴族層に徹底させるために発足された歴史があるらしい。
そのため、貴族の子女は原則として必ずこの学習院へと入学し、三年の学習期間を学園の敷地内に存在する寮で生活しながら過ごして同世代の国内貴族との結束を図る──らしい。
冬季の休暇時以外は外出するのにも学習院への申請及び家の当主の許可が必要となり、また基本的に学園内へは研究者・教師・学生身分を持たない貴族の出入りも禁止されている。
そういった事情から、王都西南部の殆どを占める巨大な敷地面積を持つ学園は、最早一つの都市じみた構造をしており、『第二の王都』と俗に呼ばれる独自の社会を形成しているのだそうだ。
新入学生の祝典が行われるその当日に、私はラトカと、アスラン、レカ、ティーラと、それにコルネリア・ハイデマンという女を伴って、学園へと向かった。
ハイデマン夫人はテレジア家が後見人の名で寮宅の家政婦長役として送り込んできた者だ。テレジア伯爵から、ではなく、テレジア家からという事で、やや様子見といったところだろうか。
信用するにはやや付き合いが足りないが、流石に善意の形で差し出されたそれを理由も無く突っぱねる事は出来なかった。
僅かな手荷物と従者だけでの移動になったのは、王都のあの小さな街屋敷を売り払って、寮宅の準備を先に整えてしまった為だ。街屋敷に住み込みとして雇っていた者達は寮宅に送り、不要な家財等も処分してしまった。
「エリザ様、学園ってどんなところなの、です?」
学園へと走る貸し馬車の中、楽しそうに窓の外を見ていたレカが、延々学園の柵が続く光景にそろそろ飽きたのか私に話し掛ける。
アークシア語はまだやや拙いが、たった数年でよく喋れるようになったと思う。数年前の冬とは違って、きちんと丁寧な言葉に直されていた。
だが、王都の大貴族家から派遣された者にとってはそうではなかったらしい。
「主人に対し、そのように気安く話し掛けてはなりません」
私が答えるより先に、ぴしゃりと冷たく厳しい声でハイデマン夫人の叱咤がレカへと飛んだ。
突然の事にレカもティーラもアスランも、驚いた顔をハイデマン夫人に向ける。既に侍女役で何度か公的な場に出た経験のあるラトカも、やはり物言いたげな表情で夫人に視線を向けた。
私は数秒どうするべきか迷い、結局口を挟む。
「……ハイデマン夫人、私は彼等に対して、特に私的な会話を禁じてはいないのだが」
「ならばお改め下さるようにお願い致します。使用人と主人がそのように馴れ合うのは酷く外聞の悪い事です。身分相応の態度をきちんと守らせなければなりません」
それは分かってはいる。王都貴族の家事使用人の扱い方には慣習じみた部分があり、領地での緩やかなそれとは大きく異なる。他の貴族の目に触れる部分が多いからか、身分の劣る者とは最低限に接触を抑え、それによって威厳を保って見せるのだという話だ。
確かにテレジア伯爵も、王都ではほぼ必ず行儀見習いの貴族の子弟を従者として連れるようにしていた。伯爵位程の家になると、それより下級の子爵家や男爵家からそういう存在を受け入れるようになるのだ。
学園内に貴族は連れていけないので、今回の場合は当主から等親が離れて貴族身分を失った者に限られるのだが……伯爵家以上の身分の子女は確実にそういった人員を抑えているだろう。
実感は無いが、下級とはいえ伯爵となった今の私も、本来ならば他家のご令嬢なりを行儀見習いとして受け入れ、侍女とするべきなのだとは思う。
けれどつい半年前までは子爵だったのだからそういった繋がりなど無い。同時に気心の知れた人員を連れてきたほうが余程動きやすいとも判断して、ティーラ達を連れてきた。
少なくとも影として運用するラトカの事を教えられるくらい信頼出来る侍従が一通り必要なので、侍女、従者、護衛と揃った新入領民の幼馴染達は必要な人員だったとも言えるが。
「では教えておくが、彼等は私の使用人である前に、カルディア伯爵の家臣という身分を持つ。……ああ、彼等を侍女や侍従につけたのは領地との連絡に関係する故あっての事だ」
適当な事を述べて、ハイデマン夫人にティーラ達の扱いについてを力技で了承させておく。
折角警戒せずに話の出来る存在を連れてきたのに、適当に雇い入れた使用人と同じようなやりとりしか出来ないようにされては困るのだ。
領主貴族だけに存在する家臣の制度までは、王都のテレジア家から派遣されたハイデマン夫人は把握していなかったらしい。彼女は一言「差し出がましい事を申しました」と慇懃に述べて口を閉じたが、その頑なな態度は少しだけ不満そうに感じられた。
「伯爵様、学園の正門に到着致しました」
車内の空気が重くなり掛けた丁度その時、貸し馬車の御者が声を掛けてきた。
少し前から減速していた馬車はいつの間にか完全に停止して、結果として下車の支度もせずに無駄口を挟んだ事になったハイデマン夫人がやや気不味そうに顔を俯かせる。
「ハイデマン夫人、レカの貸し馬車の引き払いを見てあげて下さい。初めてですから、大人の方がいた方が心強いでしょう」
ラトカの入れたフォローに、ようやく車内の微妙な雰囲気が和らぐ。
……後で好きな果実を食べさせてやろうかな。入学初日から新しい人間関係にこれ以上煩わされずに済んだのだから。いや、少し甘やかし過ぎだろうか?
馬車を降りると、まず目の前に聳え立つ学園の門が圧倒的な存在感で視界に入り込んできた。
煉瓦で舗装された広い道に、装飾の美しい背の高いアーチと門。その奥にある、白色の学び舎。上には入学の日に相応しい、雲ひとつ無い晴れた青空。
壮観だな、と思う。王宮のような煌びやかさは無いが、歴史と伝統のある学習院という存在に相応しい、実に清々しくも荘厳な佇まいだと言えよう。
……ただしそれは、この素晴らしい眺めを背景に、安っぽい装飾のタイトルロゴを被せて台無しにした映像が脳裏を過ぎらなければ、の話だ。
そういえばそうだったな、なんて、私はうんざりした思いで自分の頭を軽く抑えた。
ここ最近は特に忙しなかったというか……そんなものとは無縁の戦場にばかりいたものだから、すっかり失念していた。思い出してしまったという事は完全に忘却の彼方に追いやっていた訳では無いらしいが。
最早碌に役にも立たない上に、思い出しても嫌な気分にしかならないのだから、忘れていたままでも全く構わなかったのに。
──この学習院は、そういえばあの乙女ゲームの主な舞台だった、など。
なんというか、非常に今更ではないだろうか。
家族を毒殺した頃の事をふと思い出して、苦笑いする。あの時はもっとこの場所の事を強烈に意識していて、嫌悪と恐怖すら感じていた筈だった。
それに比べて、今はどうだ。既視感のある光景を見て、漸くその存在を思い出す程度の事になってしまっている。
便宜上前世の女の記憶と呼んでいるものについては常に認識してはいるが、乙女ゲーム云々に関してはすっかりどうでも良いものの扱いにまで自分の中で価値が無くなっているのだ。
……まあ、また見覚えのある光景に出くわせば思い出す事もあるだろうが、あんなものを覚えている必要など無いだろう。
この世界は人が生きているれっきとした現実であって、ゲームの世界ではないのだから。
誰かの行い一つでごく簡単に別の状況になると分かっているのに、あんな限定的な状況の可能性を考えるなど、全くもって無意味な事だ。