70 雪と狼竜と
外には例年通り、昨日までの大雪で分厚く雪が積もっている。今朝からは粉のような雪が音もなく降っていて、さらに厚みは増すだろう。
朝食を食べに食堂へ降りるとクラウディアがテレジア伯爵、ベルワイエ、マレシャン夫人と何やら話をしていて、入室した私に気付くとおはよう!と元気良く挨拶を寄越してくれる。
私も彼らに挨拶を返して、厨房にいるコックのボスワレフに食事を頼んでから席についた。
そこへ何の偶然か、オスカーとオルテンシオ夫人も丁度やって来て、更に最近めっきり体調の良くなったエリーゼがマーヤと共に顔を出す。
黄金丘の館の食堂は満員になった。こんなにここに人が集まったのは初めての事ではないだろうか。
食堂に座るような身分の住人が一堂に会している。珍しい事もあるものだ、とテレジア伯爵がしみじみと呟いた。
「……ここまで出自の異なる人間がこの館で共に暮らしていたのですね。改めて見てみると、実に興味深い事だと思います」
この中では比較的新参であるオスカーの零した声に、内心で同意する。
テレジア伯爵、ベルワイエ、マレシャン夫人、クラウディアとエリーゼ、オルテンシオ夫人と、オスカー。
いつの間にか、私が毒を盛って殺した家族の数よりも、家の住人の数は多くなっている。
……そう考えるとなかなかに感慨深いものがあるな。
テレジア伯爵とエリーゼは、次の春にはこの館を出て行ってしまうけれど。オルテンシオ夫人も、おそらく私が準成人を迎えて乳母としての役目を終えればこの館を去ってしまうだろう。
本来なら、家族とはそういうふうに少しずつ家から去っていくものなのかもしれない。
いや、すべての家族がそうであるという訳ではないが。誰よりも先に死んだ記憶と、家族の全てをこの手で葬った経験を持つ身としては、そんな風に感じてしまう。
雪が降って薄暗い外を、雪上を興奮気味に転げ回るラスィウォクを追って歩いていく。
今朝に降ったばかりの雪は、柔らかくさらさらとしていて歩きにくい。防寒具である毛織りのクロークも煩わしい。膝下まで丈があって唯でさえ重いのに、裾が雪に届くので水を含んで更に重くなる。
やはり冬は好きになれそうにないな、と思う。
成長の証なのか、昔ほど歩きにくいと感じる訳では無いが、動きの阻害される感覚は好きではない。
首巻きに顔を殆ど埋めるようにして、時折こちらを向いて止まるラスィウォクの後を一人無言で付いて行った。
丘を下り、雪で覆われた畑を突っ切ってクラリア村まで降りる。村の中の家には明かりが灯ってはいるが、どこも息を殺すかのように静かだった。
越冬は大抵そんなものだ。家に閉じこもって、家族と寄り添って火に当たりながら、余計なエネルギーを消費してしまわないように静かに過ごす。眠りこそしないが、それは殆ど冬眠に等しい。
熱い紅茶を入れたガラス瓶で指先を暖めながら、暫くその静けさを眺めた。村の中心の広場に積もった足跡一つ無い雪の上をラスィウォクが上機嫌で跳ね回る。
村長の家を訪ねて、手短に何か困り事が起こってはいないかと聞いた。今のところは何も無い、と答えた村長に頷いて、また雪の弱い日に様子を見に来る、と告げて次の村へ。
村から村へはラスィウォクの背に乗って行く。雪と薄闇に覆われ木々の影しか残らないような静寂の冬の村間移動は、生まれ育った領といえど人間には不可能に等しい。
けれど、狼竜がいれば、その背に乗る人間にだけはそれが可能となる。
ぽんぽん、と私はラスィウォクのぽっかりと空間の空いた右肩を撫でた。傷口に頬を寄せるように身体を伏せると、寒いと思われたのか、残る片翼が少しだけ開いて顔に当たる風が殆ど無くなる。
どういう仕組みなのかは分からないが、狼竜は風を操る魔法を、翼を起点として操っているらしい。これはオスカーが知っていた事で、王都でデイフェリアスとの戦闘前に教えてもらった。翼を振るって風を起こせたのは、切り落とされた翼に残された魔法の力を利用出来たからだ。
燐蛾の鱗粉が集めて結晶化させると灯りになるように、魔物の身体から得られる素材の一部には魔法の力が宿っているものが存在する。それらは永遠に使える訳ではなくて、まるで電池式の道具のようにいつかは使えなくなる。
ラスィウォクの翼もあれっきり風を起こすような超常の力は無くなってしまい、今は防腐加工処理をされて倉庫の中に保存されている。狼竜の軽く丈夫な皮膜を、いつか成長し終えた身体に合わせて作る防具に組み込めるように。
切り落としてしまった私の狼竜の翼を、出来る限り長く使わせてもらうつもりでいる。そうする義務が私にはあるように思えた。
「ラスィウォク……」
ごめん、とも、ありがとう、とも、どちらともつかない言葉が喉元まで迫り上がって、けれど結局声になる前に霧散した。
自在に動く蛇のような長い狼竜の尾が、私の殆ど動かなくなった左肩をそっと撫でる。人と獣であるとはいえ、お互いの言いたい事は他の誰よりも理解し合えている。
お前が居てくれて良かった。
殺さずに済んで、本当に良かった。
以前こんな風に雪の中を歩いた日の事を思い出して、その時から欠けてしまった一人の事を思って酷く感傷的な気分になる。
事有る毎に身体を末端から少しずつ切り刻まれて削り取られていっているような、或いは切り捨てさせられているような、そんな陰惨な考えが頭に纏わりついて離れない。
生きているだけで、殺さずに済んだだけで良かった、と思うようになるなんて。
溜息と自嘲じみたものが、一緒くたに漏れ出した。
どうしてこうなった。こんな、乙女ゲームの舞台になるような世界で。……こんな薄暗い思いを抱えるのが当たり前だと感じられるようになるなんて、本当に。どうして。
息苦しい程の感情が、まるで解けない雪のように降り積もっては、胸の奥でゆっくりと渦を巻く。
ラスィウォクの背に顔を伏せながら、私は長く、ただ長く、肺が空になるまで息を吐き出した。
幼少期編はこれにて終わり。