69 君に幸いあれ
コツ、コツ、と部屋の扉をノックをする。
はい、とメイドのマーヤの答える声がした。
「失礼します、エリーゼ殿」
「エリザ様!」
ぱっ、と花の咲くような笑顔をエリーゼは浮かべて、私の名を呼ぶ。今日も部屋の窓を閉めて寝台の上に座る彼女のその顔色は、あまり良いものではない。発作が増えて寝込むようになってからというもの、体力が弱っていく一方のようだ。
「最近、よくお顔を見せていただけて嬉しいです」
「いえ……時間があれば会いに来ますよ。でも、そうですね、別にエリーゼ殿から会いに来て頂いても、全く構わないのですが」
「私から?」
エリーゼはきょとん、と目を丸くして、それから瞼を伏せて曖昧に笑った。諦めているような、無気力な笑顔だった。
一度は良くなった病気が悪化するのは、確かに辛い事だろう。とはいえ彼女の症状は、彼女がこの領へとやって来た頃より軽い筈なのだが……。
「エリーゼ殿、あなたにお渡ししたいものがございます」
「はい?なんでしょう」
首を傾げた彼女は、次の瞬間私の背後からひょこりと顔を覗かせた年齢不詳の白い法衣姿の性別、年齢不詳の人間に先程よりも目を丸くしてみせた。
「……ほう、この娘が」
興味深そうにエリーゼへと詰め寄ろうとするその神官のヴェールの裾を、更にその後ろに控えたラトカがさり気なく摘んで引き止める。
「こちらは、ファリス神官。国家医師の免許を持っていらっしゃる方で、本日はお医者様としてご足労頂きました。エリーゼ殿の父君、伯父君にも話はきちんと事前に知らせてあるので、安心してください」
国家医師、とエリーゼの口からやや呆然と小さな声が滑り落ちる。
国家医師の数は少ない。試験に必要な膨大な知識や、高額な受験料がまず門戸を狭めている上、試験に受かる医師は半数以下だという。
基本的には国家医師免許は王室付きの医師になるための資格として発足されたものであって、民間レベルでは殆ど必要とされていなかった事もある。
指定医薬品の取り扱いという需要が出た以上、今後はその数も増えるだろうが、現在時点ではその数は50人にも満たない。
「森林症候群だそうだな。少し問診をさせて貰ってもよいかな?」
「ええ、……はい」
突然の事に戸惑った様子を見せるエリーゼだったが、私が首肯すると彼女はふっと緊張を解いた。
「宜しくお願い致します」
咳はどのように出るのか、発作はどれほどの頻度で起こるのか、その時間は。様々な問い掛けにエリーゼが答え、時折マーヤがそれに補足を付け加える。
毎日一刻ほどレンビアの蜜蝋を焚くように、発作の頻度が少なくなれば発作時のみ焚くように切り替えるべし、と、問診を終えたファリス神官は薬の許可証を兼ねたカードに書き込んで、それを私にぽいと渡してから、良いかな、と口を開いた。
「森林症候群の発作は癖に成りやすい。気が弱まると綿蝶も居ないのに咳が出る事も多いという。其方の症状は年齢に応じて、身体の成長と共に軽くなっているのだから、なるべく心を安らかに保ちなさい」
流石は聖職者だな、と感心するような、そんな喋り方だった。聞いているだけで安心感を得られるような。
「はい」
「大丈夫、王都のある王領は確かにこのカルディア領よりもシプレーズの木は多い。けれど、貴族街や学習院には殆ど綿蝶は飛んでは来ない。木々は基本的に、広大な都の外にある。王都へ来ても症状が悪化する事は無い」
ぽんぽん、とファリス神官がエリーゼの肩を労るように撫でながらそう言うのを、私とラトカは無言で聞いていた。
エリーゼの発作が少しずつ酷くなっていったのはこの領を離れなければならないからではないか、という事に気付いたのはごく最近の事である。十三歳を迎えた彼女は、次の春からは王都の学習院に入学しなければならない。
療養地からの移動は不安だろうし、発作を抱える彼女にはまた苦痛もあるだろう。ラトカ曰く、彼女は私が考えるよりもこのカルディア領での生活に愛着があるようだ。
「……エリーゼ殿。王都では、お父上や伯父上とも会いやすくなるでしょう。私も夏には主に王都におります。冬は、シュルストークの寒さがカルディアのそれよりも厳しいと思われるのであれば、王都に残る事も出来るでしょう」
「エリザ様……」
ファリス神官がするりと音もなく部屋を出て行く。彼女が居たエリーゼの枕元の空間を埋めるよう、私はエリーゼに歩み寄った。
十三歳。この国では準成人といって、大人と殆ど同じ法を適応されるようになる年齢だ。けれど、目の前にいる少女は、まだまだ頼りない子供の一員としてしか私には認識出来ない。
エリーゼはこの時初めて、不安に泣きそうな顔を私に見せた。彼女がこの地にやって来て、もう三年半の月日が流れたというのに。
不安を表情に浮かべると家族が心配するからと、エリーゼは滅多にそれを表へ出さなくなったのだという。
……彼女に愛情深い家族がいる事は、それが彼女に何の苦しみも無いという事にはならない。この手で家族を殺した私にはそれは理解出来ないものかもしれないが、理解出来ない苦しみを軽視して良い訳ではない。
重苦しい、と思う。
あらゆる痛みや苦しみが近過ぎて、未だこの頭の中に焦げ付き残る女の記憶の世界より、余程。
「……冬に、この領を訪れる事は、やはり出来ないのでしょうか」
エリーゼの零したその些細な願望に、私は首を横に振って答えるしかなかった。
「それは、なりません」
そうですか、と落胆の色を隠しきれずに肩を落とした彼女に、口をぐっと噤む。
本当なら、いつでも来て頂いて構わないのだと言いたかった。顔を合わせた回数さえ少なかったけれど、会おうと思えばいつでも会える場所に、穏やかで心優しい少女がいる事は、自分で思っていた以上に自分の心を癒やしてくれていたらしい。
けれど、それは叶わない。
生きているうちに彼女がこの領を訪れる事は、おそらくもう無いだろう。
──プラナテス公国から、アルバート王子の扱いに対して正式な抗議が届いた。
準成人前に修道会へと入れられるという事は、学習院への入学資格の剥奪と殆ど同義である。王族貴族の生まれであれば入学を法によって義務付けられる教育機関に入学が認められないような立場に身を置かせるとは、どういうつもりか、と。
プラナテス公家の血への侮蔑か、と、強い口調の非難さえそこには含まれていたという。
リンダール王国の消滅ももう秒読みの状態である。
連合公国成立を目前にして、友好国であったプラナテスから抗議が届くという事は、情勢として非常に危うい。
……誰もが隣国との関係を懸念している。ユグフェナ三領会議でも、戦争に向け足並みをそろえながら軍備を整えるという計画を既に調整し始めている。
それらの事情を全て喉の奥へと封じ込めて、手に持っていた蜜蝋の箱をエリーゼにそっと差し出した。
「お渡ししたいと思っていたものです。受け取って頂ければ幸いです」
「これは?」
「森林症候群の薬、になる蜜蝋です。法による決まりがあって、使い方は先程のファリス神官の指示に従わなければなりませんが、発作に効果はある筈です」
くすり、とエリーゼは驚いた顔で自分の膝の上に置かれた箱を見つめる。
医薬品は、勿論高価なものだ。それも指定医薬品であるレンビアの蜜蝋は、おそらく今最も処方されるまでにコストの掛かる薬だろう。
「発作が出なくなったら、夏に私の町屋敷まで遊びに来て下さい。小さくて、襤褸の家ですが、……歓迎します」