65 風の翼
壊れた噴水で手早く上半身の泥を洗い落として、オスカーに抱えられて片翼になったラスィウォクの背に乗らせてもらう。
ラスィウォクも私ももう限界だ。けれど、フェイリアが奪われている。それに──デイフェリアス、あの女だけは、今日この争いの中で絶対に殺す。
あの女の能力は危険すぎる。見逃す事は出来ないし、それ以上に自分の殺意をとても無視出来そうにない。
「これ以上の無理はしないで下さいよ!」
「分かっている。悪いが、戦闘はお前に任せきりになる、オスカー」
「その傷だらけの状態で積極的な戦闘行為をされる方が心臓が持ちません」
それに、とオスカーは言葉を続けた。
「あなたは騎士ではなく指揮官であり、そして私は文官ではなく、騎士です。元よりそのつもりです。……馳せ参じるのが遅くなってしまい、申し訳ありませんでした」
思った以上にオスカーが狼竜に乗り慣れてるおかげか、限界ギリギリの身体を抱えているにしては、デイフェリアスの追跡はそう困難な事ではなかった。
黒く烟るような燐蛾の群れが、平民街の中央の空で渦を巻く。
大規模な火の手は王都の上空に暗雲を生んでいた。雨に紛れて逃げるつもりなのか。垂れ込める黒い雲に、更に量を増やして立ち昇る煙が溶け込んでいく。
「雨で匂いを消されたらラスィウォクの鼻も効かなくなるな……」
「その前に追いつきます!」
オスカーの声に応えるように、建物の屋根を蹴るラスィウォクの足が力強さを増した。片翼を失って尚、彼はまるで空を翔けるような身軽さで疾駆してみせる。
こんな状況だというのに、テレジア伯爵に感謝を捧げずにはいられなかった。この立派な狼竜を、私に与えてくれた事に。
ラスィウォクが一度、低く唸り声を上げる。
目前にはもう屋根の途切れる部分が見えた。頭上で燐蛾がざざざざ、と波のような音を立てて蠢いている。
デイフェリアスは教会前の広場に立って、まるで踊るようにして指先で燐蛾を操っていた。毒々しい赤紫色の光が幾つも虚空に跡を引いて、そこから糸でも繋がれているかのように燐蛾の群れが幾つも動く。
酷く禍々しくも、これ以上に無いくらいに幻想的な光景だった。脳裏に最早霞みきった遠い記憶がチラつくのを、左手を握り込んだ痛みで強引に振り払う。
舞うデイフェリアスその傍らに、フェイリアがぐったりと俯いたまま地面に座り込んでいるのが見えた。
ラスィウォクの首筋を軽く叩く。
「行くぞ!」
私の声を引き金にして、彼は地上三階の屋根から女目掛けて飛び降りた。
険しい岩肌と雪に覆われた黒の山脈の魔物は、実にしなやかに着地の衝撃を殺してみせる。
文字通り突然降って湧いたように見えたのだろう、デイフェリアスがギョッとした顔でその場を飛び退いた。
その隙をつくように、私とオスカーとラスィウォクは一斉に動き出す。
ラスィウォクはフェイリアを咥え上げると、一目散にその場を離れて行く。
オスカーはデイフェリアスへと剣を抜いて飛び掛かり、私は教会前の聖母像の裏へと滑り込んだ。弱った内腑に掛かる圧力に込み上げてきた咳を噛み殺す。
「やっぱり来たの、しつっこいわ、ねッ!!」
ギィン、と鋭い音を立ててデイフェリアスの胸を狙ったオスカーの剣が幅広のナイフに弾かれる。続けざまに打ち込まれた斬撃を、オスカーがもう片手に握る直刃の短剣で受け流す。
ざざざぞぞぞ、と悍ましい音を立てて突っ込んで来る燐蛾の群れに、今度はオスカーがスイと後ろへ飛び退いた。
彼の戦っている姿は初めて見たが、なかなかどうして、その動きは完成されたものだった。
それは決してクラウディア程に化け物じみた動きではない。貴族的な双剣の扱いは儀礼的に過ぎる。
けれど堅実な彼の性根を表すかのように、とてもシンプルで、型に忠実な身運びだ。
「さあ、火達磨になりたくなければ精一杯踊ってみせなさいよォッ!!」
甲高く耳障りな咆哮が、ざざざざ、と蠢く燐蛾の無数の羽音に呑み込まれていった。
オスカーは武人として申し分無い実力を持ってはいるが、人間一人の技量にはやはり限界がある。ヒラヒラと不規則な動きで宙を舞う無数の燐蛾があっという間に群がり始め、彼は少しずつデイフェリアスとの距離が詰められなくなっていった。
「あはは、ほらほら、もっと踊れ!!」
女の舞踏が激しさを増す。同時に地表を蠢く燐蛾の数が膨れ上がる。
今度は都合よく噴き上がる水など無い。デイフェリアスは一切の遠慮無く、赤い津波のように燐蛾を彼へと押し寄らせる。
オスカーの表情に焦りが滲んだ。ジリ、と燻ぶり始める騎士服を即座に切り落とすが、その間にも次の燐蛾が彼に迫る。
私は息を殺して、聖母像の影からその光景をじっと眺めた。巨大な絵画を眺めるように広い視界を意識して、時折オスカーを掠める燐蛾の群れに叫びそうになるのを噛み殺して。
私は目だ。オスカーとは別のものを見なければならない。彼の言う通り、私は彼とは違って騎士ではないのだ。
あらゆる衝動と感情を削ぎ落として、頭を冷たくして──
そうして、ただ一言、一瞬を見計らって全力で怒号を放つ。
「右だ、オスカー!死角を狙え!!」
──デイフェリアスの魔法は、やはり視界が一つの起点になっているようだ。
私がこの手で切り裂いたあの女の左目は、失明こそしてはいないだろうが、それでも視力にはかなりの影響が出ているらしい。冷静に観察すると、女の左側にいる燐蛾の群れの動きが精細を欠いている。
踊るような派手な動きに惑わされそうになるが、女はラスィウォクを支配しようとする際、或いは燐蛾に何かしらの動きを与える際、必ずその対象を視ていた。
オートで単純な動きや部分的な支配を与える能力と、自らの裁量でマニュアル的に動きを指示する能力、その両方の性質を女の魔法は併せ持っている。
女はハッとした表情で、私の声に釣られて一瞬オスカーから目を離した。彼から顔を背けて、私の居る、女神像の方へと向く。
女の指先が私へと宙を切った。
広場の赤い煌めきが、一斉に私へと突っ込んでくる。
「焼け死ね、ガキがッ!!!」
眼前が真っ黒に染まる。
息を止めた。
気を抜けば脱力しようとする身体を奮い立たせる為に。
──死ぬのはお前だ、デイフェリアスッ!!
目前に迫る燐蛾の壁に向けて、拡げた狼竜の翼を渾身の力を篭めて振るった。
ゴッ、と風が唸る。
吹き飛ばされそうになって、必死でその場に踏ん張った。
うねる突風に重さの無い燐蛾が弾き飛ばされて、その全てが容易く正反対の方向へと押し返される。
轟音の中に女の悲鳴が紛れ、そうして──それは一瞬の後に形振り構わない絶叫へと変化した。
燐蛾が散った広場の中心で、オスカーの剣が女の胸を刺し貫いている。
彼が剣を引き抜くと、その飴色の肢体は地面にずるりと崩折れた。
細かく痙攣する度に地面へと真っ赤な鮮血が拡がっていく。
混乱するようにふらふらと飛び回る燐蛾は、その血に引き寄せられるかの如く、瀕死のデイフェリアスへと少しずつ集っていった。
女の声が、虚空に途切れる。
肉の焼ける匂いが漂い始めて、込み上げる吐き気に意識が遠くなる。
──けれど、勝った。確かに殺した。
私の、勝ち、だ。