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64 死闘

 喰らいつかれたら当たり前のように死ねるな。

 奇妙な程に凪いだ思考が、そんな事を頭の片隅の方で囁いた。


 地面を転がるようにして、辛うじてラスィウォクの突進から逃れる。けれど、大蛇のような尾がしなって恐ろしい勢いで左から叩き込まれ、私の軽い身体はごく呆気なく吹き飛ばされた。


「ぐ、ぅ……ッ!」


 泥濘の上をごろごろと転がる。体が何度も地面の上を跳ねる。

 嫌な音を立てて全身が軋む。衝撃で息が詰まったが、引き摺るようにしてすぐに立ち上がった。

 剣をまっすぐに、体の正面に構えて、ラスィウォクが再び飛び掛かってくるのを待ち構える。


 心が乾いて罅割れたような、酷い気分だ。

 顔についた泥を左腕で拭うと、刺すような痛みがした。そういえば斬られていたな。

 満身創痍だ。……さて、どうすれば死なずに済むだろうか。


 ラスィウォクは不機嫌そうに尾を揺らめかせて私を見ている。ディフェリアスが完全にこの場を離れたというのに、彼は正気を取り戻さない。

 完全な洗脳、だろうか。魔物や魔獣に対して、その習性を無視させ、それまでの記憶を失わせる……やはり魔法とでも言わなければ説明がつかない技術だ。


 魔法使いなど馬鹿げていると思う一方で、しかしこの世界には確かに魔法が存在しているのを私は知っている。森を丸ごと凍らせた氷蜥蜴(ラドシシルカ)や、風を操って燐蛾を弾き飛ばしたラスィウォク。魔物や魔獣の定義は魔法と呼ばれる超常的な能力を持った生物の事で、その中に人間が含まれないとは証明されてはいなかった。


「ラスィウォク、正気に戻ってくれ……っ!」


 叫んでも、ラスィウォクは私の声に一切構うような様子は見せない。低く唸り声を上げて、獲物を見る目を私に固定している。

 やはり殺すしかないのだろうか。

 殺せる、だろうか。


 ──刃は最悪、鱗の上を滑って弾かれる可能性がある。

 狙うなら目か、開いた口の中だな。


 殺す、と思った瞬間、何時もと同じように私の頭は一撃で相手を殺す事の出来る急所を探し始める。


 剣では分が悪い。槍に持ち替えたい。

 巨体のラスィウォクに対して、間合いの狭さはそのまま死に繋がる要素だ。

 槍はラスィウォクと自分の間に転がっている。飛び込んで持ち替えて、……間に合うか?


 身体は急速に重たく感じられるようになってきている。次に飛び掛かられたら避けられる自信は無い。槍を取るなら今しかない。

 一息で意を決する。殆ど前に倒れ込むようにして、私は泥濘の地面を蹴った。その動きに釣られるように、ラスィウォクも駆け出す。


 靴の裏の泥が滑って、半ば転びながら槍の柄を掴んだ。

 身体を起こした瞬間には、眼前にもうラスィウォクの口が迫っている。


 私は反射的に──槍の柄を横にして、その鋭い歯列を受け止めてしまった。


 自分の咄嗟の行動に自分で驚く。ラスィウォクの勢いに呆気なく負けて、地面に頭からひっくり返る。

 突っ張った腕にじわじわと圧力が掛かるようだった。この獣、私を甚振って遊んでいるのか。


「ぁ、あああっ!!」


 ミシミシと肩が悲鳴を上げ、左腕に走る裂傷から真っ赤な血飛沫が音を立てて吹き出す。獣が機嫌良さそうに喉を鳴らした。

 苦痛に叫ぶとともに、視界が滲み出す。正気を失ったラスィウォクの目がぼやけて見えなくなっていく。

 くそ、何故こんな時に、涙なんか……。


 食い縛った歯の奥から意思に反して嗚咽が次々と漏れ出してくるのを、止める事が出来なかった。

 何故彼と生死を掛けて争わねばならないのだろう。まだ目も開かぬうちからこの手で育ててきたというのに。どんな時も傍らにあった、この美しい獣を、この手で殺すなど。

 ──無理だ。出来ない。例え死んでもやりたくない。

 腕が震える。眦の泥が水で洗い流されていく。


 けれど、どう感情が泣き喚いたところで、理性を失った獣を生かしておく訳にはいかないのだ。

 私が育てた獣であれば、尚更。


 一瞬だけ固く噛まれた槍の柄にぶら下がるようにして、全力でラスィウォクの無防備に晒された喉を蹴り上げる。

 自分でもその曲芸じみた動きに意識の半分を驚かせながら、不意打ちにギャッと悲鳴を上げて身体を逸らしたラスィウォクの隙をついて槍を縦に持ち替える。


 さあ死ね。この体制ではお前の身体に轢き潰されて私も一緒に死ぬだろうが、お前となら一緒に死んでやる。



 ……だが、槍の先に肉を突き破る衝撃はいつまで経っても訪れなかった。

 突然ラスィウォクが劈くような咆哮を上げたかと思うと、完全に私の上からその巨体を飛び退かせる。

 どちゃ、と何かが泥の上に落ちる音が聞こえた。何か、美しい赤紫色の大きなものが。

 心臓が氷の手で握りしめられたかのようだった。声にもならない声でラスィウォク、と私の喉が絶叫を絞り出す。


「──ご無事ですかっ!?」


「…………オスカー、?」


 泥の中から大人の腕に引き起こされる。生真面目な声は焦りを帯びて、私が彼の名を呼ぶとほっと息をついた。


「もうダメかと……っ、申し訳ありません、私が離れたばかりに」


 いや、自分の周囲から一時的にでも彼を離したのは自分の命令だ。私は緩く首を横に振った。


「ラスィ、ウォク、は?」


 息切れした声が細切れになる。肺が軋んで、酷い痛みがした。


「……翼を切り落としました」


 翼を。──そうか。

 ラスィウォクが泥濘の中で藻掻く音が、段々強く、苦しげなものになっていく。


「ラスィウォク……ラスィウォクっ!!」


 痛みの衝撃で洗脳が解けないだろうか。そんな淡い──淡すぎる願いを抱いて叫ぶ。


 けれど、果たして、その応えはあった。

 苦悶の唸り声に埋もれながらも、弱々しくラスィウォクは一つ、何時もの声で鳴いてみせる。


「……ラスィウォク、」


 結局、あの女──デイフェリアスの宣言の通りだ。

 殺したくないと願うラスィウォクをこの手で殺さなければならないという状況に、私の心完膚無きまでに、あの女の言った通りグジュグジュのバラバラに破かれたと思う。


 だが──まだ私もラスィウォクも生きている。満身創痍で、翼を切り落とされて尚、生きている。身体も、精神も、互いに殺しきらずに済んだ。

 心は紙や布ではない。希望さえあれば、一瞬で裂け目を繋ぎ合わせるが出来る。


 ボロボロと溢れる涙を、オスカーが拭ってくれた。

 遠慮がちに頬を撫でるそれは程なくして、生暖かく湿ったラスィウォクの舌へと代わったようだった。

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