62 熱狂する殺意・上
「ラスィウォク……っ!?貴様、何をしたッ!」
女、デイフェリアスの喉元目掛けて、槍の穂先を突き出す。デイフェリアスは一瞬目を見開いたが、穂先はその首筋を掠めるだけに終わった。
横から剣を叩き込んで、軌道を逸らした男を睨みつける。突きの踏み込みの勢いを利用して身体を回転させ、遠心力を乗せて横殴りに槍を薙いで威嚇すると、二人は勢い良く後ろに飛び退った。
「あらやだ、意外と強いわね」
「容赦が無いからな。あの子は人間としておかしいのだ、だから躊躇い無く人を殺そうとする事が出来る。異常者である父上の血を誰より濃く継いでいる証拠だ」
男──メルキオールの口から酷く愉快そうに放たれた言葉に、精神的な揺さぶりを掛けられていると分かっていても脳がじんと痺れたような感覚がする。
父と同じ異常者と、人としておかしいのだと──うるさい、そんな事は言われなくても嫌というほどよく分かっている──そう思うのに、私の奥歯は勝手にギリギリと強く噛み合って音を立てた。
間合いを図る。二対一の戦いは絶望的に厳しい状況だが、ラスィウォクが倒れた今、私がどうにかするしかない。
ともすれば際限無く速まろうとする心臓を宥めるように、深く、ゆっくりと呼吸のリズムを整える。
「……そんなに怖ァい顔で睨まないでおくれよ、おチビちゃん。あんたの相手は別にいるんだ」
ボタボタと首から溢れる赤黒い血を抑えて、デイフェリアスは苦痛に歪む顔をにたりと笑みの形に繕って見せた。
その両の腕が、ゆらりと虚空に開かれる。妖しく燐光を放つ紋様が宙に軌跡を引いた。
ざり、と地面を引っ掻くような音がして、背後のラスィウォクが緩慢な動作で首を擡げる。
「ラスィ──」
ウォク、と続く筈だった言葉が、声になる前に途切れた。殆ど反射的に飛び退いたそこへ、ラスィウォクの巨体が地面に体当たりするかのように突っ込んで来る。
「……ラスィウォク?」
半ば呆然とその名を呼んだのは、その様子が明らかに常軌を逸したものだったからだ。
再び地面に伏した彼は、苦しげな呻き声を上げながら藻掻くようにして前脚で地面を引っ掻く。口から泡を噴いて、酷い興奮状態を示すようにその瞳孔は細く縦に開いていた。
一体どうしたというのか。ざわり、と嫌な予感に全身の肌が粟立った。
「うふふふふ。さあさ、可愛いペットと遊んであげてよ、おチビちゃん──!!」
デイフェリアスの耳障りな哄笑が響いて、その腕がまた揺らめく。まるで踊るかように、赤紫色の不気味な軌跡を宙に描いて。
ラスィウォクが再度のろのろと立ち上がって、私の方へと正気を失った瞳を頭ごと向けた。涎をダラダラと垂らして唸り、咆哮する。
頭が真っ白になった。突進してくるラスィウォクから、地面を転がるようにして辛うじて逃れられたのは、殆ど無意識に近い。
「ラスィウォク──」
信じられない思いが、再び私に彼の名を呼ばせる。ラスィウォクはまた苦悶の呻き声を上げて、頭を伏せて滅茶苦茶に地面に擦り付けた。何かを振り払うようなその行為に、デイフェリアスが嘲笑じみた甲高い声で叫ぶ。
「流石は竜の端くれかしらァッ!随分抵抗してくれるわね!!」
首から流れる血で全身を汚しながら踊るその女は、酷く悍ましい存在のように感じられた。理解出来ないものだ、という事だけが真っ先に理解出来てしまい、その得体の知れなさに身が竦みそうになる。
あの女、ラスィウォクを操っている。
まさか。そんな馬鹿な事があってたまるか。他の生物を意のままに操る事が出来るなんて、そんな事が──否定する意思とは裏腹に、ふ、と視界の上辺に影がちらついて、未だ平民街の上空を浮遊する夥しい数の燐蛾が目に入る。
「……魔物、を、操っている?」
それは、風を操るラスィウォクの魔法の、ような。
この広場へと来る途上で私は、燐蛾の異常な行動が人の作為によるものであると考えた。
同時に、人の住居の中に唐突に表れた森林狒狒の事も思い浮かべた事を思い出す。
その刹那、目の前が真っ赤に染まった。
右手が強く宙を切る。黒い線を描くように、右手の中から飛び出した槍が女の右太腿を貫いて、鮮血が霧のように噴き出した。
女の哄笑が絶叫へと引き攣れる。デイフェリアス、と男が初めて冷静さを失った声で女を呼んだ。
どろりと溢れる、真っ黒で重たい油のような残忍な愉悦に、自分の唇が吊り上る。左手の指でぺたりと頬に触れて、そうして私は自分が酷く歪んだ笑みを浮かべている事に気が付いた。
くふ、と嗤いさえ漏れる。腹の内側が煮え滾り、爛れそうな程に熱く苦しく、それとは逆に頭は氷の中に閉じ込められたかのようで、これ以上なくキンと冷えていた。
耳鳴りが酷い。奇妙な浮遊感がして、地面の感触が分からなくなる。
濁った感情が呻き声にも似た低い笑い声となって吐き出された。
傍に転がる死体の頭に足を掛けて、ついさっきその頸を刺し貫いた自分の細剣を引き抜く。
デイフェリアスの方も自分の足から槍を力任せに引き抜いて、ガランと地面に放り投げた。女の顔は怒りと屈辱に染まっていて、殺意と憎しみを滾らせて眼光鋭く私を睨む。ますます自分の唇が歪んだ気がした。
あの女が、カミルの仇。
そう思うと、とても一言では言い表せない汚泥のような感情が濁流となって溢れ出す。
藻掻き苦しむラスィウォクの事さえ頭からは消え失せた。
「殺してやる」
あまりに残虐なその響きは、私の脳を更に凍てつかせた。