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61 兄と妹、或いは伯父と姪

 ずる、と手のひらを滑り落ちた槍の石突きが、ガツンと音を立てて地面にぶつかった。その音で僅かに正気を取り戻し、慌てて指先を固く握り締める。


 父、或いは自分と見紛う程にカルディア家の特徴をその身に示したその男は、自分の足元に転がったオーグレーン子爵を無造作に跨いで、一歩私に近付いた。

 ──子爵。そこでやっと、私は先程の物音が子爵の倒れた音である事に思い至った。降る水が地面に溜まって、そこへじわじわと暗い赤色が広がっていく。

 殺されたのか、と上手く働かない頭がようやくそうと認識した途端、彼の右手が弱々しく震えながら持ち上がって、赤眼の男のズボンの裾を掴んだ。


「なぜ、ノ……ドシュテ……、私を……っ!」


 喘息に紛れた細切れの言葉が、ざあざあという水音に霞みながらもここまで届いた。ガツリ、と頭を殴られたような衝撃が走る。処理しきれない情報に……というよりは、処理したくない情報に、脳が思考を放棄しようとする。


 今、オーグレーン子爵はあの男の事を何と呼んだ?

 ノルドシュテル厶、とそう呼んだのか?


「メルキオール、あの子がそうなの?本当にそっくりなんだねぇ」


 きゃらきゃらと笑う、得体の知れないやや掠れたような女の声。それを発したであろう赤目の男の後ろに立っていたもう一人がすいと足を踏み出して、オーグレーン子爵の頭を無造作に踏み躙る。子爵は一つ呻き声を上げて、それっきり静かになった。


 そいつは旅装用の質素なマントに身を包んだ、背の高い女だった。

 目深に被られたフードも口元に巻かれた布のせいで顔はよく分からないが、まるで娼婦か何かのように剥き出しにした太腿と腹は滑らかな褐色の肌で、この国の人間ではない事を一目で伺わせる。


「……何者だ、お前達」


 私の誰何に、彼らはふと顔を見合わせた。そうして、ふっと嗤う。


「よくお聞きよ、おチビちゃん。彼の名はメルキオール・ノルドシュテル厶侯爵さ。お前さんよりずっと身分の高いお方よ。敬ってもっと綺麗な言葉を話したほうが良さそうね?」


 女の方がにたにたといやらしく笑みながら、歌でも吟じるかのように、高らかにそう言った。


 ──馬鹿な。ノルドシュテルム侯爵(・・)だって……?この、明らかに私と血縁関係のありそうな、父に瓜二つの男が?

 男がノルドシュテルムの性を持っている事さえ既に衝撃的なのに、その上侯爵を名乗るなど。混乱と驚愕で頭がくらくらする。


 そもそも、私以外に生き残りが居たなんて。──まさかと思うが、殺し損ねた奴がいたのか?


 再度男の方を見る。ギリ、と槍の柄を握る右手に力が篭った。

 男は父と本当に、何から何まで写したようにそっくりだったが、明確に異なる点がある。年齢だ。

 私の記憶の中の父の姿よりも、ほんの僅かに男は若く見えた。私よりも十五くらい上、だろうか。二十は離れていなさそうに見える。


「そう睨まないでくれ、エリザ。私達は──、ようやく会えた血族じゃないか。そうだろう?私の妹よ。或いは、姪と呼んだほうが良いのかな?」


 ぞわり、と鳥肌が立った。

 知っているのか(・・・・・・・)


 無遠慮に胸の内側を撫で回されるような、どろりと気持ち悪い感覚が喉の奥で凝る。内腑がぐるりとひっくり返されるような、迫り上がる感覚に足の力が抜けそうになって、ぐらりと傾ぐ身体を槍を支えに何とか保つ。

 けれど強烈な悪寒と吐き気は堪えきれず、私はくの字に身体を折り曲げて、ごぇっ、と嘔吐いた。一度で収まらず、数度、身体が痙攣するようにして何も入っていない胃から空気の一欠片までもを押し出そうとする。


「おやおや、どうやら文字通り反吐が出る程嫌われているようだな。悲しい事だ。私はずっと、父上の一番のお気に入りであるお前に会うのを楽しみにしていたというのに」


 至極楽しそうに男が喋る。それだけで、私の吐き気は更に増した。

 頭がぐらんぐらんと揺れる。記憶の中の父の声が無理矢理叩き起こされる。


 いつの間にか私のすぐ横に寄り添っていたラスィウォクが、威嚇するようにその二人に吠えた。ゴウ、と突風が唸り、二人にたたらを踏ませる。

 女の被っていたマントと布が吹き飛んで、その全貌が明らかとなる。東方国家の特徴の色濃い、くっきりとした目鼻立ちの顔をしていて、そして何故か顔面の左側が奇妙に歪んでいるように見えた。

 白墨の刺青だ。複雑な紋様を描くそれが、女の顔の右半分から十字を描くようにして、腕に、足にと広がっている。


「あら、凄い。珍しいペットを飼っているのねぇ、おチビちゃん。羨ましいわァ──」


 女の揶揄するような声は、耳の奥にねっとりと絡み付いてきた。

 吐き気を強引に呑み下し、口を抑えて顔を上げてそいつを睨み付ける。視線の先で、女は再び不気味に笑んだ。


「羨ましいから、ちょっと貸してよ。私も遊びたいわ」


 女はゆらりと空の両手を力なくラスィウォクへと向ける。

 そうして、目を疑う事に──女の身体の刺青が、燐光を放ちながら毒々しい赤紫の色に染まった。


「遊ぶと言うが、そろそろここを離れる必要があるぞ、デイフェリアス」


「分かってるわよ、メルキオール。すこぉしだけよ。あのおチビちゃんの心がグジュグジュのバラバラに破けるまで、ほんの少し遊ぶだけさ」


 狂気を帯びてぎらつく眼光を私に据えながら、女は悍ましい程に歪んだ笑みを浮かべてみせた。

 一体何をするつもりなのか。私は警戒を深めて、槍を構える。

 デイフェリアス、と男は女の事を呼んだ。つまり、こいつこそが国内に先んじて潜入したという、異教の狂信テロリストだという事だ。


「さぁ、じゃあペットと一緒に遊びましょうねぇ!!」


 女が耳障りな声で吠えた、その瞬間。

 ギャン、と突然隣のラスィウォクが悲鳴を上げて、その場に横倒しに倒れ込んだ。

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