60 血濡れの瞳
「フェイリアの匂いを追え、急げ!」
まだそう遠くへは行ってない筈である。この混乱に乗じて身を晦ませようとするなら、あの目立つ随行者達と共に居る限り、騒ぎの無い方向へ逃げるという事は無いだろう。特に、貴族街の方へは向かわない。
けれどあの黒装の二人組が何者かが分からないため、フェイリアとオーグレーン子爵が二手に分かれないとも限らない。だから、私はラスィウォクを急かす。
ラスィウォクは火の手の勢いが弱い平民街の広間に降り立って、そこからは道を疾走し始めた。時折飛んでくる火の粉や燐蛾を風で押しやって、人気の無い道を駆け抜けていく。
燐蛾はいつの間にか群れになって飛ぶという奇妙な動きを収めていた。群がるようにしてその辺をひらひらと飛び回っているのは変わりないが、波のようにうねる事は無い。
むしろそれがあまりにも不気味だ、と思った。
魔物の異常行動はこの数年ずっと続いている事ではある。だが、ここまで明確に生態から逸脱した行動など、それこそ天変地異の前触れでない限り起こる筈が無い。積み重ねてきた知識がそう否定する。
燐蛾が自然な行動としてこんな事を引き起こすなんて、『有り得ない』。
──なら、これは人の手によるものか。
脳裏を過るのは、三年前の事だ。
縄張りを離れて、唐突に人間の建物の中に現れた魔獣、森林狒狒。人の血に酷く酔って、興奮した様子だった。けれど本来あの生き物の性質から考えれば、それは有り得ない事なのだ。
森林狒狒は知能が高いとはいえ、魔獣である事には変わりない。本質は獣という事だ。つまり、火の手の上がる建物の中で食料でもない動物を執拗に狩るなど、その本能が許さない筈だった。
……自然に起こり得ないことが起こっている時は、その要因は大抵人の手が関わっている。どうやったのかは知らないが、魔物や魔獣を暴走させる手段を持っている人間がどこかに存在しているという事か。
思考を巡らせていた私に、ラスィウォクが低く唸り声を上げた。
「見つけたか」
腰に佩いた剣を引き抜く。
儀礼用の細剣ではあるが、別に得物として不十分という訳ではない。
噴水のある小さな広場に、黒装の男が二人見えた。一人はフェイリアを肩に担ぎ、もう一人は槍を片手に周囲を警戒している。
噴水の向こう側に人影が写る。……オーグレーン子爵一人ではないな。一人か二人、子爵に相対するように立つ影がある。
まずはフェイリアを取り返す必要があるか。人質を取られては何も出来なくなる。──個人的な思惑の為にも、彼女を奪われては困るしな。
「行け、ラスィウォク。狩りの時間だ」
瞬間、ラスィウォクは放たれた弓のように飛び出した。
急襲に慌てて振られた槍の穂先をラスィウォクの鱗が跳ね飛ばし、無防備になった肢体に喰らいつく。その勢いのまま突っ込まれた噴水がひしゃげ、辺り一面に高く水を撒き散らした。
同時に彼の背から飛び降りた私の細剣が、フェイリアを拘束する男の項を狙い通り真っ直ぐに刺し貫く。
人質は担ぐのではなく、自分の矢面に立たせるからこそ意味がある。来世では覚えておくんだな。
ぐげッ、という奇妙な音を吐いて口から剣先を生やした男の肩から、もぎ取るようにフェイリアを引き摺り下ろす。悲鳴を上げる彼女を抱えて地面を転がり、二人分の着地の衝撃を殺した。9歳の小さな体では、流石に16歳になる少女を受け止めるのは難しい。
「伏せていろ」
端的な言葉は普段の癖で命令調になってしまった。呆然と私を見上げるフェイリアを置いて身体を起こし、ラスィウォクが吐き捨てた死体の手から槍を奪う。少し重いが、まあ使えるだろう。
その瞬間、ドサリと重いものが倒れる音が噴水の向こう側から聞こえてきた。雨のように降る水の向こうに、二つの人影が揺らめいて、こちらを振り向く。
「……これはこれは、エリザ・カルディア。早速お目に掛かれるとは思わなかったな。本当に、父親に良く似て実に鮮やかに人を殺してみせる」
うっそりと陰鬱な笑みを浮かべて、何処か奇妙に浮かされたような、絡みつくような声で酷い賛辞を並べてみせた、その男を見た瞬間だった。
私は、愕然とその場に立ち尽くす事になった。
水に濡れる黒髪も、血に濡れたような悍ましい赤い瞳も、鏡越しに嫌というほど眺めたそれと全く同じ色をしている。
一瞬自分の鏡像か、と思った。けれど、降ろされた髪や服装が異なる。そうして、寧ろ記憶の中のどろりと狂ったそれに姿が一致する。
「…………、……お父、さま?」
頭に焦げ付いて離れない悪夢が、現実に抜け出して来たかのようだった。
その男は私の父と殆どそのままの姿で、記憶の中の父を彷彿とさせるように、ゆっくりと僅かに首を傾げてみせた。