59 避難
奥歯を噛み締めて、左手に突き立つ槍の柄を右手で掴む。
打ち身の衝撃から回復しきっていないせいで軽く息が詰まった。グジュ、と嫌な音がして、激痛に左手の指先が痙攣する。
刃は上手く骨を避けて刺さっているようだった。運が良い。骨に傷がついていたら吐き気で動作が鈍くなる所だった。
ぐっと掴んだ所を上に引く。掌の汗でずるりと滑って、上手く持ち上がらない。
火が近いせいでじりじりと全身に焦りが広まっていく。急がないと炎にまかれて死ぬ……それに、周囲に倒れた人達も。
地に伏した神官がびくりと痙攣したのが見えた。恐らく彼と、ローグシア子爵はまだ生きている筈だ。他の三人は手遅れだ。司法公家の男は胸を刺し貫かれたように見えたし、衛兵二人は既に炎に包まれてしまっている。
せめて神官を助けなければ。彼さえ無事なら、オーグレーン子爵を断頭台に送り込む事が出来る筈だ。……まあ、その前に自分自身の危機的状況を何とかしなければならないのだが。
けれど重たい金属製の槍は、貧弱な子供の片手ではビクともしない。体制も悪い。
ますます焦る。再度燐蛾の群れが近くを通ったらと思うと背筋に怖気が走る。上がった息を何とか落ち着かせようとするが、逆に熱気に蒸せそうになった。
……人の焼ける匂いに、否応なしに嫌な記憶が脳裏を過ぎって酷く気分が悪い。痛みや熱以外の要因で滲む汗に舌打ちを漏らした。
落ち着け……落ち着け私。
いっそこのまま思いっきり手を引いて、中指と人差し指の間の肉を槍の先で裂いてしまったらどうか。最悪小指から中指くらいまでは一生使い物にならなくなるかもしれないが、ここで生きたまま火炙りにされて死ぬよりはマシだろう。利き手でもないし。
「──エリザッ!」
そんな事を考え始めた丁度その時、まあ何と運の良い事か、上空から聞きなれた声が降ってきた。
全く違う声なのに、一瞬別の名前を呼びそうになって、慌てて口を噤む。また喧嘩になりたくはない。
「……エリーゼ、私はここだ!」
ぶわ、と火の粉が散る。着地したラスィウォクの背から転がり落ちるようにして、黒髪に紅茶色の瞳の子供が私に駆け寄った。
彼は私の手の甲に突き刺さった槍を見て表情を歪めると、両の手で柄を握ってずるりと地面から引き抜いてくれた。
ボタボタと音を立てて地面に血が落ちる。痺れるような強烈な痛みに腕ごと震える。
マントを口と右手で引き裂いて、ラトカの手を借りてぐるぐると結び付けて止血し、神官を引き摺るように抱えてラスィウォクの背に飛び乗る。口にはローグシア子爵を銜え、私とラトカと神官を背に乗せて、ラスィウォクはぶわりと空に浮かんだ。
轟々と風の音が聞こえる。燐蛾の群れの中を突っ切っているのに、燐蛾が全く近づいて来ないのは、ラスィウォクが魔法で風を操っているからだろうか。
眼下に広がる王都の下町は、本当に酷い有様だった。群がる燐蛾に狭い路地を逃げ惑う人々。あちこちから火と黒い煙が立ち上り、悲鳴と怒号が混ざり合う。
「お前、何故ここに?」
「ラスィウォクが突然……俺の事背中に乗せて屋敷を飛び出して」
そうか、と私は頷いた。
ラトカは状況を把握しきれていないようだった。本当にラスィウォクが突然動いたのだろう。
出来ればラトカではなくテオやギュンターを連れてきて欲しい所だったが、恐らく異変を察知してすぐに近くにいた人間を連れて私の元へと飛んで来てくれたようなので、文句など付けようもない。
ほっとした気分になって、ラスィウォクの首を指先で撫でた。
「おい、怪我した手を動かすなよ」
「止血してある。平気だ。手の平を動かさなければ悪化したりはしない」
きつく縛った左手は、既に出血も止まろうとしている。ジクジクとした痛みを意識の外に追いやって、ラスィウォクに水路に降りるよう指示を出した。
水に対して弱い燐蛾は、水路にだけは近づいていない。逃げ遅れた平民たちが水路の中心で身を寄せ合って震えている。
「ラトカ、怪我人を頼む。なるべく死なすな。特にこっちの神官の方」
端的に命令して、動きの邪魔になるマントを剥ぎ取り、包帯にでもしろとラトカの腕に押し付けた。え、と目を丸くしたラトカと、気絶した二人を高水敷の上に降ろす。
「水路から離れるな。燐蛾は水には近寄らないから」
「どこ行くんだよ、そんな怪我で!」
「フェイリア・ローグシアを連れてオーグレーン子爵が逃亡した。彼等を追う」
はあ!?とラトカが叫ぶのを背中で受けながら、ラスィウォクに飛翔を命じる。すぐにぐわりと風が唸り、浮遊感にぐっと内臓の沈む感覚がした。