55 罠
カタリ、と微かな音がした。窓を外から押し開けて、部屋の中へとするりと忍び込んでくる気配がする。ほんの僅かな隙間から覗き込むと、明らかにこの屋敷の使用人ではない、私の知らない男が一人、注意深く周囲を警戒しているのが見えた。
私はただ静かに、手の中の果実の皮に爪を立てた。途端に溢れるように、ふんわりと甘く微かな香りが私の周囲に広がる。
……夏に小さなキャビネットの中になんて入り込むものではないな。暑い。汗で体がベタつく。それに、空気も篭って息苦しい。
かくれんぼなんてするものではないな。
戸棚の外の気配は、用心深くそろりそろりと足音を忍ばせて、部屋を出て行った。父親譲りの私の地獄耳は、そいつが部屋の扉をきっちり閉める微かな音もきちんと拾ってくれた。
皮を剥いた柔らかな果肉を齧る。すると、中からはとろりとした甘ったるい蜜が溢れだしてくる。それを、私は掌へと吐き出した。酷く濃い、甘い香りが充満する。
そうして、やっとのそりとキャビネットから這い出す。
オンボロ街屋敷の小さな応接室は、わたしがキャビネットの中へと潜り込んだときと変わらず、静かなままだ。
……開いたままになった窓を除いて、家具の位置にも変化は無い。
私は上階を振り仰いだ。信頼の置ける者たちに任せたのだから、何の心配も無いだろう。私は騒ぎが聞こえた頃にでも、ゆっくり上がって行けばいい筈だ。
そう考えて、手の中の果肉を食んだ。桃に似たような食感のその甘い果実で、喉の渇きを潤わせた。
──バタンガシャンと一瞬騒々しい物音に、悲鳴と獣の唸り声が混じる。
その音が完全に静かになったのを確認してから、私はソファから腰を上げた。
やっとか。どんな奴かは知らないが、侵入者は余程慎重な奴らしい。この小さな屋敷の中を、目当ての部屋まで移動するのに四半刻近くも掛けるとは。
果実はすっかり食べ終わってしまっている。手に付いた蜜ももう完全に拭い終わった。
応接室を出ても、屋敷の中はすっかり静まり返っている。元々使用人は少ないが、日中は買い出しに行ったり厨房で仕事をしたりと、更に屋敷の中を行き来する使用人が減る。特に今日は『私』が貴族院へと出かけているので、使用人たちは屋敷の外での用事を優先させているだろう。
階段を上って、二階へ。丁度応接室の上に位置する客室の一つの扉が開いたままになっている。この三日間、フェイリアに貸していた部屋だ。
部屋の中へと踏み込む。フェイリアへと貸していた紅茶のカップが割れ、破片が散乱していた。
それから、恐怖に震えて寝台の端に縮こまっているフェイリアと、寝台の前、床に押さえつけられて声も無くもがいている男、侵入者が一人。そしてその侵入者を押さえつけている男が二人と、狼竜が一匹。
「……おい、カップが割れてるぞ。物を壊すなと言っておいた筈だが」
「割ったのは俺等じゃねえよ。こいつがやったんだ」
そう言って、不機嫌そうな顔のギュンターは踏み抑えている男にさらに体重を掛けた。床に転がる男が、はくはくと苦しそうに口を動かす。かひゅ、かひゅ、とその喉からは不安定な音が漏れ出していて、口の端からは涎が垂れていた。息が吸えないでいる事が一目で分かった。
こうしておけば舌を噛んで自死される事も無いし、行動も思考もかなり制限される。息が出来なくなるのはとても苦しい事なのだ。死を考える事すら、身体がさせてくれなくなる。
「窒息死しない内に裸に剥いて縛っておけ。自死しないよう、口も」
「分かっている」
以前の盗賊団の時にもやった事だ、と手慣れた様子で拘束を始めたのは、侵入者を押さえつけているもう一人、テオである。
最後に、その巨体で侵入者を押し潰しているラスィウォクが、誇らしげに私を見てわふんと一つ吠えた。尻尾がぶおんぶおんと床を掃くように振られているが、彼は犬ではなく狼竜で、その尾は蛇に近いので、埃は舞わずに済んでいる。
男の侵入を伝える果実の匂いの合図を、きちんと彼は嗅ぎ取って、ギュンター達に伝えてくれたようだ。狼竜とは本当に賢い生物である。
この屋敷に来たばかりのテオとギュンターには、使用人の顔を判断できず、侵入者を取り押さえるのに間違いが出る可能性があった。
それを私が見極める事で解決策とし、果実の匂いでラスィウォクに知らせた。ラスィウォクは二段階の匂いで合図を嗅ぎ取り、二人と共に侵入者を捕まえてくれたのだ。
「やや見苦しいものを見せるかと思いますので、フェイリア嬢。寝台の幕を下ろさせて頂いてもよろしいでしょうか」
未だ真っ青になって震えているフェイリアにそう声を掛けると、フェイリアはびくりと肩を跳ねさせた。襲撃の可能性は彼女自身には伝えずにいたので、酷く驚いているようだ。荒事とも無縁らしく、取り押さえられた男の様子に顔色を悪くしていた。
そうして、「へ、部屋を移っては……だめでしょうか」とか細い声で尋ねてくる。
「我々の傍にいる方が良いでしょう。このような状況ですから、貴女を一人にするのには不安がある。幕を下ろしますよ。未婚の女性に見せるようなものではない」
まだ何か言いたげな表情をしているフェイリアに構わず、私は寝台の幕をさっさと下ろした。それと同時に、テオが侵入者の男の衣服を容赦なく引き裂き脱がす音が部屋に響く。
天幕の中から小さな悲鳴が上がった。まあ、普通の貴族令嬢であればそうそう聴かない音だろう。
テオに容赦なく縛られていく男は、ラスィウォクの重みで息も絶え絶えといった様子だ。しかし彼は酸欠で朦朧とした表情をしつつも、その瞳に困惑と驚愕を浮かばせて、どういう事だと私を見つめている。
恐らく彼はテレジア伯爵と共に、更に二人の目立つ護衛騎士を引き連れて貴族院へと出発した『私』を見たのだろう。
黒髪に赤目の子供。それはきっと、この男が事前に効かされていた『私』の外見情報にぴったり一致していた筈だ。
……まあ、その子供は勿論偽物な訳で、実際には私は屋敷から外には出ていなかった訳だが。
兎も角、作戦は上手くいったというわけだ。屋敷の主人も護衛も使用人も出払って、フェイリアに何かをするには絶好のチャンスだと見えたのだろうが……残念だったな。
「お館様、見てくれ。この男の服に家紋らしきものがある」
テオが私に侵入者の服を投げてよこした。確かに裏地にオーグレーン家の家紋の刺繍が入っているのを確認して、ギュンターとテオに頷いて見せる。
「確かに。では、そいつを縛り終えたら冬支度の部屋に放り込んで置いてくれ。これであとは、あのフレチェの息子が上手く動くだけだな」
「──あいつはいいのか?そのままにしておいて」
「『エリーゼ』なら、自分の務めを果たすだろう」
「やっと仲直りしたのか?二年越しとは、随分長い喧嘩だったな」
「ああ。──ちゃんと謝ったら、ビンタ一発で許して貰えた。取り敢えずはな」
私が薄らと腫れた自分の左頬を差して見せると、テオとギュンターはぶはっと噴出した。尚、あのクソガキがガキからビンタ喰らうようになるなんてな!とは、その際にギュンターが言い放った言葉である。




