34 人はそれを何と呼ぶ
雪が降らなくなり始め、分厚い雲から晴れ間が差すようになると、もう春の始まりだ。雪の積もりが薄い所からぽつぽつと鮮やかな黄色の花を咲かせた福寿草が顔を見せ、黒の山脈から吹き下ろす風が和らぐと、領内の川が増水して堤の完成していないセラ川の下流では氾濫が起こる。
「でも来年には冬にも向こうに居れるよね?きっと」
「冬の移動は大変だからな。来年までには大人たちが堤を完成させると思う」
「早く村でちゃんと暮らせるといいねぇ」
小高い黄金丘の上からは、平たいカルディア領がかなり遠くまで見渡せる。
数日に一度エリーゼの部屋に招くようになった新入領民の幼馴染三人組、アスラン、ティーラとレカが目を細めて東を見つめるのを、一歩後ろで見守った。二人の話を聞きながら、余計かと思いつつも口を挟む。
「……もうすぐ余所から家具を作ったりする職人が沢山来る。その分、大人達が他の仕事に取り掛かれる」
「あっ、それ知ってるよ!エリザ様が雇ってくれたんだよね」
「ああ、まぁ……」
振り向いたレカがぱっと笑顔を浮かべる。気恥ずかしさに曖昧に頷いたが、レカはティーラと共に私の左右を囲んで手を握るとぴょこぴょこと楽しげに跳ねた。
「楽しみだねぇ。早くエリザ様のお城も出来ないかな」
普段はおっとりと語尾を間延びさせた特徴的な喋り方をするレカだが、興奮しているのか、若干ハキハキとして早口になっている。巻き込まれたティーラはいつも私の面倒を見てくれるお姉さん気質なだけあって、慣れたようにそれに付き合う。
「そちらはまだ時間がかかると思う。小城とはいえ、五年が目安だ」
その喜びように水を差すかと予想してはいたが、一応、予定を伝えておく。それも村を優先して作業をしていくので、村の作業が遅れるほど工期は伸びていくのだが。
レカはあからさまにふてくされた。唇を付き出して、ぎゅっと眉根を寄せる。
「ええ〜、じゃあやっぱり堤が出来なくてもいいやぁ。エリザ様が冬にいないの、僕やだもん。ね、エリザ様、来年の冬も僕達がこっちに来れるようにしてよ」
「こら、レカ。我儘を言ってエリザ様を困らせるんじゃない」
「それにもしも来年も私達がこっちで暮らす事になっても、エリザ様が来るとは限らないよ?」
「むぅ……」
ティーラとアスランに嗜められ、レカはむっとしたまま黙り込んだ。苦笑してその頭に手を伸ばし、少し戸惑ってから──ぽんぽんと軽く叩くようにして撫でる。
「会いに行くよ。出来る限り沢山」
「本当っ?約束だよ!」
子供というのは本当に単純で、感情がころころと忙しなく変わる。途端に機嫌を直してにぱっと笑ったレカは、その勢いのまま掛けて行き、離してあった馬の背に身軽に飛び乗った。
「僕、先に帰ってお昼御飯用意しておくね!」
言い置いて、返事をする間も無いほどあっという間にレカは丘を下って行ってしまった。残されたティーラ、アスランと三人で顔を見合わせて、やれやれと苦笑を零しあった。
行儀悪く執務用の机に腰かけて、クラウディアが足先をぶらぶらと揺らしている。彼女の後ろにある窓からはすっかり春のそれとなった陽光が差し込んで、逆光のためにその表情は伺えない。
彼女の正面に相対するように置かれた長椅子にふんぞり返って、この沈黙の時間を数える。
話がある、と言い出したのはクラウディアの方だった。呼び止めるのに二階の窓から飛び降りられたりしないだけ、今回の方がマシだろう。しかしその当のクラウディアは、口をへの字に曲げたまま、随分長い間黙りこくっている。何を喋るべきなのか、自分でもまだ纏められていないのか。珍しく眉間に皺を寄せて難しい顔をしている。
正午から一刻過ぎて、水時計の内部に入っている球がぶつかりかちんと音を立ててそれを知らせた。
はっとしたようにクラウディアが顔を上げる。困ったような表情を浮かべたまま私と視線を合わせ、軈てやっと躊躇いがちに第一声を繰り出した。
「エリザ殿……ん?エレナ殿?いや違うな、エリザ殿、エリザ殿。その……一つお尋ねしたい事があるのだが」
……脱力してがくりと首を下げなかった自分に拍手を贈りたい。これだけ長く待たせるのだから、どんなに重大な事を話そうとしているのかと身構えた矢先にこれである。
そういえば、最近漸くクラウディアが私の名前を正確に覚え始めたような気がする。ああ、精神的な疲労で軽い眩暈が……
溜息をぐっと堪えつつ、彼女の言葉に返事をする。
「はい、なんでしょうか?」
「ああ……うん。気分を悪くしないで欲しいのだが」
本当に珍しい事に、クラウディアは歯切れ悪くそんな前置きをした。
「もう随分前の話になるが、冬の初めごろに越境の盗賊を処刑しただろう。どうしてあの時、自分で手を下したのだ?」
目の前の彼女がこてんと首を傾げ、それに合わせて金蜜色の髪がさらりと音をたてて揺れる。
なるほど、その事か。特に感情に波が立つ事も無く、すとんとそう思えた。多分、その事件の直後に尋ねられていたらばこうはいかなかっただろう。相変わらず野性的な勘をしているらしく、クラウディアは私の精神面も簡単に察する事が出来るらしい。
「理由はいろいろとありますね。だから一言で表すことは出来ませんが──敢えて言うならば、殺したかったから、でしょうね」
「もう一人の方はどうだ?地下牢でそのまま凍死させた……」
「あちらは、そうですね。殺すのも煩わしいと思ったので。誰にも知られぬまま勝手に朽ちろ、と思いました」
クラウディアは無言でこくりと頷いた。弾圧するわけでも、諭すわけでも、賛同するわけでもなく、ただ納得したらしかった。
それを見て、私の胸中には一つの疑問が渦を巻いた。
どうして、クラウディアでは駄目だったのだろう?
今更になってから思い知った事なのだが、私は随分と我侭だ。
前世の記憶があるために大人として扱って欲しいと思い、そう見えるように出来る限り振る舞いながらも、子供として寄り掛かれる大人を探している。
それでいてオルテンシオ夫人のように、子ども扱いをされ、完全に甘やかされそうになると、精神がグズグズに溶けてしまうような気がして恐ろしく思う。
だから──私は、カミルの事が好きだった。大切だった。子供として接してくれながらも、一人の人間として、友人として、そして領主として見ていてくれたカミルとの記憶が、その存在が、今もなお胸に突き刺さる程に。
彼を信頼できず、突き離し、死に追いやった私がそう思う事は罪だろうか。
そして、クラウディアも考えようによっては条件を満たしている。
シル族の子供達と同じように純真で、私をそのまま私として受け止めてくれる、有り難い存在だ。
なのに私は、どうしても彼女をカミルと同じようには思えない。
その違いがとても不思議だった。
「わかった。時間を取らせて申し訳ない。もっと早くに聞けば良かった」
先程までの惑ったような表情が嘘のように、クラウディアは朗らかな笑みを浮かべる。そうして何の衒いもなく、さっさと部屋を出て行ってしまった。
そうしてなんとなく、浮かんだ疑問の答えが思い浮かんだ。
恐らく私にとって、彼女は自分より大人でも子供でもない存在なのだ。
それこそ、シル族の子供達と同じように。
それを友達と呼称してよいのかどうか、今の私ではまだ判断が出来なかった。
カミルの事なら、今なら簡単に、友人だったと言えるのに。